コンタックス コンタックスの概要

コンタックス

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概要

ツァイス・イコンのブランド

このブランド名は1932年3月コンタックスI発売に際してツァイス・イコン社内の公募で1位となり定められた。ちなみに当時自動車用アクセサリーの製造も行なっており、その回転計の名称がコンタックスだったという。ツァイス・イコンの母体となった4社から少なくとも1文字を採って組み合わせたという説もあるが、竹田正一郎は「コンテッサ・ネッテル社に分が良すぎる」として否定している[1]

戦後ドイツ分割に伴いツァイス・イコンも分割され、コンタックス銘で西側のツァイスはレンジファインダーカメラを引き続き製造し、東側のツァイス・イコンはM42マウントの一眼レフカメラを製造した。

東西ツァイス間のブランド使用権を巡る訴訟を経て従来の商標につき東のツァイスは東側のみ、西のツァイスは西側のみでしか使用しないことで妥結した結果、東側のツァイス・イコンが製造したコンタックスは西側世界で販売される分につきペンタコンブランドに変更され、さらには全てプラクチカに変更された。西側のツァイス・イコンが製造したコンタックスは最終型であるコンタックスIIIa1961年に製造中止になった後、ツァイス・イコンのフラッグシップは1960年に発売された一眼レフカメラコンタレックスシリーズに引き継がれ、コンタックスは一時休眠ブランドとなった。

ヤシカ・京セラのブランドとして復活

西側のツァイス・イコンが1971年にカメラ事業を中止した後、カール・ツァイスは日本のカメラメーカーヤシカとブランド等に関するライセンス契約を締結し、以後コンタックス(CONTAX )はヤシカが製造・販売するカメラのうちカール・ツァイスブランドのレンズを採用した高級機種に付けられるブランド名となって復活した。1983年ヤシカは京セラに吸収合併され、コンタックスブランドも同社へ引き継がれた。

2004年京セラはカメラ事業を縮小し、併用していた「京セラ」ブランドのデジタルカメラを廃して「コンタックス」(CONTAX)に統一すると発表した。しかし直後の2005年に京セラはコンタックスを含むカメラ事業から撤退することとなり、4月11日には同年9月のコンタックス事業終了が発表され、コンタックスは再び休眠ブランドとなっている。アフターサポートは継続していたが、2015年4月30日の受付をもって補修サービスを終了した[2]

ツァイス・イコンの製品

レンジファインダーのコンタックス

ライカ判レンジファインダーカメラ。外装デザインは角型を基調とする。連綿と製造改良を続け、カメラのトップブランドの一つとしてライカに比肩するシステムを持つようになった。

ボディ

当時の新素材であるジルミン系アルミ合金ダイカストを採用し、レンズマウントを取り付けてから基準面に合わせてフィルムレールを研削する最新の工法が採用され、ゾナー5cmF1.5のような大口径レンズであっても必要充分な精度が保証されていた。シャッターは当初最高速1/1000秒、後に1/1250秒を誇る縦走り金属製フォーカルプレーン式で、シャッター幕上に強い光線が焦点を結んでも焼けて穴が開く心配がない。スリット幅を厳密にセットした状態で巻き上げ軸に巻き上げられておりシャッターボタンを押すとそのままの幅でフィルムゲート面を通過する方式で、後幕にストッパーなりガバナーなりを噛ませて制御するライカ方式と比較して正確なシャッター速度が出しやすい。縦走りを採用したのは、短辺を走ることでシャッター作動を短時間で完了させ移動している被写体の変形を少なくするため。幕は当時の新素材であり破断に強いジュラルミンに銅を少量加えアルミニウム皮膜を施して使用され、ジュラルミンでは軽すぎて充分な慣性重量が得られなかったため後に真鍮に変更された。シャッター作動時にもシャッターダイヤルが回転しないためカメラマンが触っていて設定よりスローシャッターになってしまう事故が起こらない。レンズマウントは標準レンズ用の内バヨネットとその他のレンズ用の外バヨネットの二重バヨネットであり、迅速なレンズ交換が可能である[3]。裏蓋下側両端にあるノブを起こして回転させると裏蓋を外すことができ、フィルム装填が容易。巻上スプールは最後までボディーに固定されなかったので紛失の可能性がある。もし紛失したり購入した中古に付属しなかったりした場合は、フィルム冒頭部のカットは必要になるものの、DPE店で廃棄されている現代パトローネを分解すれば中に存在する巻戻スプールを若干小改造することで代用できる。ただしIIa/IIIa型では、スプールに挿入される巻き上げ軸の外側に板バネが付けられたため、多少の振動ではスプールが脱落しないようになった。

I
  • コンタックスIContax I1932年3月発売[4][5]) - 発売時の名称は単にコンタックスで、コンタックスII発売に伴いコンタックスIとされた[5]エマヌエル・ゴルトベルク主導のもとハインツ・キュッペンベンダー博士を中心にフラッグシップ機として設計された。長大な基線長の高精度な連動距離計を持ち、テッサー2.8cmF8を除きすべての交換レンズに連動する。距離計可動鏡は精密なギアシステムにより駆動されているが、小さい体積に詰め込んだためシャッター巻き上げドラムの体積が小さくなってしまい、完全主義による複雑な設計と相まって故障発生確率を高くしている。ファインダー倍率は約0.5倍で50mmに対応する他、新品購入時に引き出し式の85mmか135mmのマスクがついて来た。距離計の視野が135mmに近いので、ファインダーマスクが85mmの個体を購入すれば3種類の焦点距離に対応できる。その外装色からブラック・コンタックスと俗称された。コンタックスはその設計コンセプトが「作画意図の高忠実再現」であり、ツァイス・イコンが持てる技術力を投入して開発し、そのため撮影結果は当時の24×36mm(ライカ)判カメラの中で最高である一方、非常に高価だった。初期型以降改良を重ね、研究者にも数えきれない程多数のバージョン違いがあり、また、コンタックスのシリアルナンバーはライカのような通し番号ではなく頭にアルファベット2文字がつきその順番が分からないこと、本社が第二次世界大戦で甚大な被害を受け資料が残っていないことから製造時期の確定が困難なこともあり、研究者により見解の相違がある。ハンス・ユルゲン・クッツは以下のI-1~I-7に分類している。
    • I-1型 - シャッター速度はZ、1/25秒、1/50秒、1/100秒、1/200秒、1/500秒、1/1000秒。クリックストップがあるが中間シャッター速度も使用できる。距離計の鏡は可動鏡と固定半透明鏡ともに銀メッキで基線長101.7mm。
    • I-2型(1932年10月発売) - 距離計の固定半透明鏡が金メッキとなり、これによりピントがずれている時のコントラストが高くなり見やすくなった。
    • I-3型(1933年6月頃発売) - 従来スリット幅だけで行なっていた露光時間制御を、幕速も変更して行なうようになった。長時間グループZ、1/2秒、夜間撮影グループが1/5秒、1/10秒の2グループに別れたスローシャッターが追加[3]され、通常撮影グループ1/25秒、1/50秒、1/100秒と高速撮影グループ1/100秒、1/200秒、1/500秒、1/1000秒の全部で4グループとなった。1/100秒が通常撮影グループと高速撮影グループの2グループに含まれているのは、よく使用する速度でありグループ変更の面倒を少しでも減らすためである。シャッター速度を決定する場合は巻き上げノブ基部にあるローレットを回して幕速=グループを決め、その後巻き上げノブを持ち上げて回し最外部に現れるスピードの場所に落とし込むことになる。
    • I-4型(1933年後期) - 三脚取り付け金具がコンタックスIIと同様の折り畳み式となった。
    • I-5型(1934年中期) - ZをBと表示するようになった。ライカのパテントを避けるため「距離計外側ファインダー内側」を「距離計内側ファインダ−外側」に変更し基線長が93mmに短縮されたが、距離計が回転楔型プリズムを使用するドレーカイル(Drehkeil )式となり、精度が格段に向上した[5]。またダイキャストが変更され、板金だったアクセサリーシューが切削加工品になっている。
    • I-6型(1935年初期) - 無限遠ロック解除レバーが無限遠以外では下がったままになった。
    • I-7型(1935年後期) - シャッター最高速が1/1250秒となった[3]。ただし本当に実在するか議論があり、1988年現在実在説が有力ではあるものの確認されていない[6]

これだけでも製造期間を考えると半年に一度は改良されていたことになり、また内部構造を見ると少なくとも3ヶ月に1度改良されているという。販売部門から開発部門に苦情が殺到したと言われ[誰によって?]、あるカメラ研究家は「開発の子宮から無理に引っぱり出されたような」カメラであると評している。

短所は巻上げノブがボディ前面にあるため速写性に欠けて回しにくいこと、巻き上げ・巻き戻しがライカと比べ重いこと、またシャッター速度設定時に誤ると故障の原因になる事がある。1936年まで製造され1938年まで販売された。総生産台数約36,700台。

II
  • コンタックスIIContax II1936年発売[7][3]) - フーベルト・ネルヴィンが主になって設計した。その外装色からクローム・コンタックスと俗称される。コンタックスIと比較すれば短くなったものの基線長38mmのライカに比して格段に精度の高い基線長89.5mm、ファインダー倍率0.7倍、有効基線長約63mmで半円型プリズムを使用するシュヴェンクカイル(Schwenkkeil )式連動距離計を組み込んだメスズハー(ドイツ語Meßsucher )ファインダーを採用し速写性に優れる。シャッター速度は初期型の約2000台がB、1/2秒、1/5秒、1/10秒、1/25秒、1/50秒、1/100秒、1/200秒、1/500秒、1/1000秒で、間もなく1/100秒の代わりに1/125秒、1/200秒の代わりに1/250秒となった。この他シャッターダイヤルにはないがBにセルフタイマーを併用することで1秒が得られる。シャッター速度全域に渡り一つのダイヤルで設定可能となり、シャッターチャージ前後を問わずシャッター速度の変更可能。セルフタイマーも装備した。これを実現するためコンタックスIと比較しても内部構造は格段に複雑になった。これは耐久性を犠牲にせず実現しており、例えば「40万回以上シャッターを切っても補修の必要がない」を品質検査基準としていた[8]。第二次世界大戦までの間に約59,500台が生産された。巻き戻しノブはφ22mm[9]
    • イエナ・コンタックス(1947年製造[10]) - ほぼコンタックスIIそのままで、戦後ツァイス・イコンではなくカール・ツァイス・イエナ(Carl Zeiss Jena )で製作されその銘が入っている[11]
    • アイボリー・コンタックス - 通常クローム仕上げである部分がアイボリー仕上げ、黒モロッコ革張りの部分がトカゲ革張りというコンタックスIIが戦後5台製作された。1988年現在本物として認定されボディーナンバーとレンズナンバーが判明していたのは4台である[11]
  • コンタックスIIIContax III1936年発売[7][3]) - コンタックスIIにセレン光電池式電気露出計を搭載したモデルでその他は同一仕様[3]。電気露出計内蔵カメラとして戦前の二眼レフカメラコンタフレックスに続きわずか1年遅れ、世界で2番目の採用である。その万能性からユニバーサル・コンタックスと呼ばれる[3]。露出計の使用法は、まず巻き戻しノブ基部にあるフィルム感度を合わせ、露光計の蓋を閉めたまま巻き戻しノブの下のダイヤルを反時計方向に回しきり、目盛が▲に合っているかを確認して露光計の蓋を開き、巻き戻しノブの基部にあるリングを回して上面のメーターの針を定点に合わせ、その時調節リングが示す絞りとシャッターを読み取ることにより測光する。巻き戻しノブがφ27mmと大径化されている[9]。生産台数は約38,000台。
  • コンタックスIVContax IV1936年6月特許取得、試作のみ) - セレン露出計とシャッター速度を連動させるAE機能を搭載している。
  • コンタックスIIaContax IIa ) - 新生ツァイス・イコンの本拠地、西ドイツのシュトゥットガルトで製造したモデルで、戦前のコンタックスIIが機能はほぼそのままに小型化され、手を触れると不安定だったコマ数計、中指で塞ぎやすかった連動距離計窓を移動する等改良がされている。しかし基線長が74mm、倍率0.65×と測距精度が下がった[12]ことなどから「改悪品」と評する人もいる[13]
    • コンタックスIIaブラックダイヤル1950年発売[14][10]) - シャッターダイヤルの数字が前期型ではすべて黒文字で記されていたため『ブラックダイヤル』と呼ばれる。シンクロ接点は軍艦部背面にあり、発光器との同調のために専用エレクトロニックフラッシュ用No.1366、フラッシュバルブ用No.1360のアクセサリーケーブルが必要である。
    • コンタックスIIaカラーダイヤル1954年発売[12][10]) - 後期型ではシャッター速度の1/50秒がX接点を示す黄、それより高速スピードが赤に色分けされたため『カラーダイヤル』と称される。シンクロ接点は一般的なDIN規格となった。1960年まで製造・販売された。
  • コンタックスIIIaContax IIIa ) - コンタックスIIaにセレン式電池露出計を搭載したモデルで、その他は同一仕様。
    • コンタックスIIIaブラックダイヤル1951年発売[10]) - シャッターダイヤルの数字が前期型ではすべて黒文字で記されていたため『ブラックダイヤル』と呼ばれる。シンクロ接点は軍艦部背面にあり、発光器との同調のために専用エレクトロニックフラッシュ用No.1366、フラッシュバルブ用No.1360のアクセサリーケーブルが必要である。
    • コンタックスIIIaカラーダイヤル1954年発売) - 後期型ではシャッター速度の1/50秒がX接点を示す黄、それより高速スピードが赤に色分けされたため『カラーダイヤル』と称される。シンクロ接点は一般的なDIN規格となった。1961年まで製造・販売された最後のツァイス・イコン製「コンタックス」である。
  • VK-21 - コンタックスIIa/コンタックスIIIaの後継機の試作で、市販されなかった[15]
  • VK-22 - コンタックスIIa/コンタックスIIIaの後継機の試作で、市販されなかった[15]
  • VK-27 - コンタックスIIa/コンタックスIIIaの後継機の試作で、市販されなかった[15]
  • ノーネームコンタックスNo Name Contax1963年頃発売) - コンタックスの銘がないためこう呼ばれる。以前は「コンタックスIIを製造していたイエナの工場にて戦後ソビエト連邦占領下で製造され、コンタックスとキエフの過渡的存在」とされていたが、現在は旧ソビエト連邦で1963年頃アメリカ向けに出荷された製品であることが判明しノーネームキエフと呼ばれている。機種表示がない他はキエフ4aそのもの。ボディー底部はコンタックスIIaに酷似している[16]。初歩的ながらシンクロ接点を装備している[16]

純正レンズ

戦前・戦後を通じて非常に多くの卓越した交換レンズが供給された。戦前はイエナのカール・ツアイス製、戦後は東ドイツのツァイスから供給されたいくつかを除き西ドイツのオーバーコッヘン工場製である。戦前型と戦後型でマウント互換性はあるが、戦後型ボディーでは距離計の基線長が72mmに短くなったため18cmの直接マウント式レンズはピント精度が足らず使用できず、またシャッターユニット小型化のためレンズ尾部の大きい旧ビオゴン3.5cmF2.8は干渉し装着できない。また戦前型ボディーと戦後型ボディーでは距離計の焦点調節ギアの回転方向が逆になり、右へ回すと無限遠に移動するように変更され二重像の見かけの移動も逆になった。アタッチメントはφ40.5mmねじ込みが基本サイズである。日沖宗弘はビオゴン21mmF4.5について「開放から相当シャープで少し絞るとクリアーでたいへんシャープな描写をする。色再現もよい。」[17]、戦後のビオゴン35mmF2.8について「よりナチュラルな、すっきりした描写力を持ち、画面内での奥行感・空気感ではプラナーを凌ぐといってよい」「ボケ味も柔らかく素直だからどんな状況でも安心して使える」[18]、プラナー35mmF3.5について「開放からコントラスト、シャープネスともにハイレヴェルで、時によってはうっとうしいくらい彫りの深い写り方をする。特筆すべきは木立の茂みや木の葉の描写で、樹木がより元気に、生き生きと写る。」[19]、ゾナー85mmF2について「開放付近からかなり解像力があり、一段絞るとたいへんシャープになる、しかし研ぎすまされた感じはなく、穏やかさを失わない。ゾナーというよりはプラナーという感じの写りで、ボケがたいへん美しい。世界中の85ミリ級レンズの中でも傑作の一つかもしれない。最近のプラナーほど華やかすぎるところがなく、ひかえめであるのがさすが。」[20]ゾナ−135mmF4について「開放付近ではややソフトだが、ポートレートには使えるソフトさだ。二段ほど絞ると鋭さが出てくる。描写には癖が少なく、シャープでコントラストが高いが素直である」[20]と高く評価している。

コンタックスI時代はニッケル仕上げで「カール・ツァイス・イエナ」(Carl Zeiss Jena )銘。

  • テッサー2.8cmF8[21]1933年発売[22]) - 距離計非連動。
  • ビオター4cmF2[21]1933年発売[22]) - 4群6枚[22]。実焦点距離42.5mm。「4 1/4cm」標記の製品もある。
  • ゾナー5cmF1.5[23][21]1932年発売[22]) - 発売当時から長らく世界最高速でありつづけ、ライバルであったエルンスト・ライツ(現ライカ)が同スペックのズマリット50mmF1.5を出すのは10年以上後になった。3群7枚[22]。アタッチメント初期はφ42mmカブセ、後φ40.5mmねじ込み。
  • ゾナー5cmF2[23][21]1932年発売) - 固定鏡胴。アタッチメント初期はφ42mmカブセ、後φ40.5mmねじ込み。
  • テッサー5cmF2.8[21]1932年発売[22]) - 沈胴式。3群4枚[22]
  • テッサー5cmF3.5[21]1932年発売[22]) - 沈胴式。3群4枚[22]
  • ゾナー8.5cmF2[21]1933年発売[22]) - 3群6枚[22]。アタッチメントはφ49mmねじ込み。
  • トリオター8.5cmF4[21]1932年発売[22]) - 3群3枚[22]。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • ゾナー13.5cmF4(1932年発売[22][21]) - 戦前製は凄まじく重量がある。3群4枚[22]。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • テレテッサーK18cmF6.3[23][21]1933年発売[22]) - 直接マウント方式で生産された。3群4枚[22]
  • テレテッサーK30cmF8(1934年発売[22]) - 3群4枚[22]
  • フェルンオブジェクティブ50cmF8(1934年発売[22]) - フレクトスコープを併用する。1群2枚[22]

コンタックスII時代以降はクローム仕上げで「カール・ツァイス・イエナ」(Carl Zeiss Jena )銘、コートされたものは「カール・ツァイス・イエナT」(Carl Zeiss Jena T )銘。一部のレンズは同スペックのまま光学系が変更された。

  • テッサー2.8cmF8[22] - 戦前のみの生産。距離計非連動。
  • ビオゴン3.5cmF2.8(1937年発売[22]) - ルートヴィッヒ・ベルテレ設計。戦前発売されたビオゴンはビオゴン銘ではあるがレンズ構成はいわゆるビオゴン型ではなくゾナー型4群6枚。後玉が大きくコンタックスIIa/コンタックスIIIaには使用できない。明るく周辺まで画質が優れているが、歪曲収差が大きい欠点がある。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • ヘラー3.5cmF3.5(1938年発売) - ジルヴェスター・フーバー設計。元来はビオゴン3.5cmF2.8の普及版として企画されたという。試作のみとも500-1000本の生産とも言われる珍品。2群5枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • オルソメター3.5cmF4.5(1937年発売[22]) - 4群6枚[22]
  • ステレオターC3.5cmF4(1940年発売) - ステレオ写真用レンズ。
  • ビオター4cmF2[22] - 実焦点距離42.5mm。「4 1/4cm」標記の製品もある。
  • ゾナー5cmF1.5 - アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • ゾナー5cmF2 - 沈胴式になった。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • テッサー5cmF2.8 - 沈胴式。
  • テッサー5cmF3.5 - 沈胴式。
  • ゾナー8.5cmF2[24] - その大きさ太さから当時「樽」と俗称された[25]。アタッチメントはφ49mmねじ込み。
  • トリオター8.5cmF4[22] - 3群3枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • ゾナー13.5cmF4[22] - 戦前製は凄まじく重量がある。3群4枚[22]。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • ゾナー18cmF2.8(1936年発売) - コンタックスIIとともにベルリンオリンピックに合わせ、ドイツ民族とその産業があらゆる分野で卓越していることを示そうとしてアドルフ・ヒトラーから開発するよう圧力があったと言われオリンピア・ゾナーと俗称される。ベルリンオリンピックの記録映画「美の祭典」を撮影したレニ・リーフェンシュタールは後に「ツァイスが開発した新型レンズが強力な武器になった」と語っている。最初期型は距離計連動式で300台を越えないと想像されている。1938年に倒立逆像の「フレクトスコープ」というミラーボックス併用となり、その後「フレクトスコープ」が正立逆像に改良された。
  • テレテッサーK18cmF6.3[22] - 直接マウント方式。
  • ゾナー30cmF4(1940年発売[22]) - フレクトスコープを併用する。3群5枚[22]
  • フェルンオブジェクティブ50cmF8[22] - フレクトスコープを併用する。

戦後すぐは西ドイツカール・ツァイスのレンズ製造能力が充分でなく、東ドイツのツァイスからレンズが供給され、戦後しばらくは東西ドイツ間で交流があった証左とされる。西側の生産体制が整うに連れ順次切り替えたものの、135mmより長いレンズはその後もずっとイエナ製だった[15]

  • トポゴン25mmF4(1950年発売) - トポゴン型4群4枚。このレンズに合わせ西ドイツのツァイスはビオゴン21mmF4.5を出すまでそのファインダーターレットに25mmを入れていた。コンタックスIには使用できない。距離計非連動。
  • ビオゴン3.5cmF2.8[22] - ビオゴン銘ではあるがレンズ構成はいわゆるビオゴン型ではなくゾナー型。後玉が大きくコンタックスIIa/コンタックスIIIaには使用できない。明るく周辺まで画質が優れている一方、歪曲収差が大きい欠点がある。後にデッドコピーとして旧ソビエト連邦製ジュピター12Jupiter-12 )が多数製造された。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • ビオメター35mmF2.8(1950年発売[22]) - ハリー・ツェルナー設計。4群5枚[22]コンタックスIIa/コンタックスIIIaにも使用できる。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • ゾナー5cmF1.5 - アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。後にデッドコピーとして旧ソビエト連邦製ジュピター3Jupiter-3 )が多数製造された。初期のニッコール5cmF1.5も同様のデッドコピーである。
  • ゾナー5cmF2 - 沈胴式。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。後にデッドコピーとして旧ソビエト連邦製ジュピター8Jupiter-8 )が多数製造された。
  • テッサー5cmF2.8 - 沈胴式。
  • テッサー5cmF3.5 - 沈胴式。
  • ビオター75mmF1.5[22]1951年発売) - 4群6枚[22]
  • ゾナー8.5cmF2 - 後にデッドコピーとして旧ソビエト連邦製ジュピター9Jupiter-9 )が多数製造された。アタッチメントはφ49mmねじ込み。
  • トリオター8.5cmF4 - 3群3枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • ゾナー13.5cmF4[22] - 後にデッドコピーとして旧ソビエト連邦製ジュピター11Jupiter-11 )が多数製造された。3群4枚[22]。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • ゾナー18cmF2.8
  • ゾナー30cmF4 - フレクトスコープを併用する。
  • フェルンオブジェクティブ50cmF8 - フレクトスコープを併用する。

戦後西ドイツでは「ツァイス・オプトンT」(Zeiss Opton T )銘で、コートが当然になったのか後には「ツァイス・オプトン」(Zeiss Opton )銘となった。

  • ビオゴン21mmF4.5(1954年発売) - ルートヴィッヒ・ベルテレ設計。5群8枚[22]。最短撮影距離0.9m。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • ビオゴン35mmF2.8(1950年発売[22]) - 戦後西ドイツで生産された。いわゆるビオゴン型4群7枚[22]のレンズ構成。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。コンタックスIIa/コンタックスIIIaにも使用できる。
  • プラナー35mmF3.5(1954年発売[22]) - アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。コンタックスIIa/コンタックスIIIaにも使用できる。当時はビオゴン35mmF2.8の普及版という設定であり、性能は互角である。
  • ゾナー50mmF1.5(1950年発売[22]) - アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • ゾナー50mmF2(1950年発売[22]) - 非沈胴式になった。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • テッサー50mmF3.5(1954年発売[22]) - 非沈胴式になった。3群4枚[22]
  • ゾナー85mmF2(1950年発売[22]) - 3群7枚(1950年発売[22])。アタッチメントはφ49mmねじ込み。
  • トリオター85mmF4(1950年発売[22]) - 3群3枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • ゾナー135mmF4 - アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。

さらに後には「カール・ツァイス」(Carl Zeiss )銘で生産された。

  • ビオゴン21mmF4.5 - ルートヴィッヒ・ベルテレ設計。5群8枚[22]。最短撮影距離0.9m。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • ビオゴン35mmF2.8 - いわゆるビオゴン型のレンズ構成。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • プラナー35mmF3.5 - アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。コンタックスIIa/コンタックスIIIaにも使用できる。当時はビオゴン35mmF2.8の普及版という設定であり、性能は互角である。
  • ステレオターC35mmF3.5(1952年発売) - 戦後に生産されたステレオ写真用レンズ。
  • ゾナー50mmF1.5[22] - アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • ゾナー50mmF2[22] - 非沈胴式。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
  • テッサー50mmF3.5 - 非沈胴式。
  • テッサー115mmF3.5 - パンフレックスを併用する。
  • ゾナー180mmF2.8 - 1950年代初めレンズの設計が変更されるとともに正立正像でスプリットイメージを持つ「フレクトメーター」というミラーボックス併用となった。フレクトメーターマウントの製品は適当なアダプターにより他のカメラにも転用できるようになっている[26]

非純正レンズ

ここに挙げた他、キエフ (カメラ)#レンジファインダーカメラ用レンズはキエフV内爪マウント用を除き互換性があるとされている。また広角レンズに関しては被写界深度が深いためニコンSマウント用を流用できる。ニコンSマウントレンズの一覧コシナ・フォクトレンダーのカメラ製品一覧#SC&Sレンズ参照のこと。

  • キヤノン28mmF3.5(1950年代中盤発売) - キヤノン製。アタッチメントはφ40mmねじ込み[27][28]
  • タイプX1 35mmF3.5 - アンジェニュー[27]。3群4枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。最短撮影距離1m。
  • マクロプラズマート35mmF2.7(1934年発売) - メイヤー製。
  • ソリゴール35mmF2.8 - ミランダカメラ製。
  • ミノール35mmF3.5 - オールドデルフト製。
  • ズノー50mmF1.1[29]1953年発売) - ズノー光学工業製。
  • フジノン5cmF1.2(1954年発売) - 富士写真フイルム(現富士フイルム)製。
  • ズノー50mmF1.3[29]
  • ノクトン50mmF1.5(1955年頃発売?) - フォクトレンダー[27]。「コンタックスIIaの後継機として1955年頃試作されたVK-22に装着されている写真があり[30]VK-27の標準レンズとしても装着されていたことがありその後わずかな数が市販されたという説があり、中古市場でも特別扱いされず流通している[31]
  • プリモプラン5cmF1.5 - メイヤー製。
  • プリモプラン5cmF1.9(1935年発売) - メイヤー製。
  • ヘリゴン50mmF2 - ローデンシュトック[27]
  • ウルトロン50mmF2(1950年発売) - フォクトレンダー[27]
  • マクロ・プラズマート5cmF2.7 - メイヤー製。
  • メオプタ53mmF1.8 - メオプタ製。
  • キノ・プラズマート75mmF1.5(1934年発売) - メイヤー製。
  • コムラー80mmF1.8(1957年発売) - 三協光機製。
  • ニッコールS8.5cmF1.5(1951年発売) - 日本光学工業(現ニコン)製。ゾナー型3群7枚。最短撮影距離1m[32]。アタッチメントはφ60mmねじ込み。
  • ニッコールP8.5cmF2(1948年発売) - 日本光学工業(現ニコン)製。ゾナー型3群5枚。アタッチメントはφ48mmねじ込み。最短撮影距離1m。ピントリングに「C」のマークが入っていることでニコンSマウントと区別されている[33]
  • デフィネクス89mmF3.5 - ロッス製。
  • タイプY1 90mmF2.5 - アンジェニュー製。
  • フロール90mmF3.5 - ベルチオ光学機械社製。
  • キヤノン100mmF3.5(1950年代中盤発売)[28] - キヤノン製。
  • ニッコールP10.5cmF2.5(1954年発売) - 日本光学工業(現ニコン)製。ゾナー型3群5枚。アタッチメントはφ52mmねじ込み。最短撮影距離1.2m。ピントリングに「C」のマークが入っていることでニコンSマウントと区別されている[34]
  • トリオプラン105mmF2.8 - メイヤー製。
  • コムラー105mmF2.8 - 三協光機製。
  • パン・タッカー125mmF2.3 - アストロ・ベルリン製。
  • キヤノン135mmF3.5(1950年代中盤発売)[28] - キヤノン製。
  • ニッコールQ13.5cm/135mmF3.5(1950年3月発売) - 日本光学工業(現ニコン)製。ニッコールQ13.5cmF4を改良したゾナー型3群4枚。アタッチメントはφ43mmねじ込み。最短撮影距離1.5m。ピントリングに「C」のマークが入っていることでニコンSマウントと区別されている。三脚座がある[35]
  • オイリゴン13.5cmF3.5 - ローデンシュトック製。
  • テレタナー135mmF3.5 - 田中光学製。
  • ニッコールQ13.5cmF4(1947年発売) - 日本光学工業(現ニコン)製。ゾナー型3群4枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。最短撮影距離1.5m。ピントリングに「C」のマークが入っていることでニコンSマウントと区別されている。三脚座はない[36]
  • オイリゴン135mmF3.5 - ローデンシュトック製。
  • オイリナー13.5cmF4 - ローデンシュトック[27]
  • ピエスケール135mmF4 - アストロ・ベルリン製。
  • テレ・オブジェクティフ145mmF4.5 - メイヤー製。
  • オイリナー150mmF3.5 - ローデンシュトック製。
  • テレ・メゴール150mmF5.5 - メイヤー製。
  • ドグマー18cmF4.5 - ゲルツ製。
  • テレ・クセナー180mmF5.5 - シュナイダー・クロイツナッハ製。
  • デルファー400mmF5.6 - オールドデルフト製ミラーレンズ。

一眼レフカメラのコンタックス/ペンタコンシリーズ

東ドイツのツァイスイコンが発売した、135フィルムを使用する24×36mm(ライカ)判一眼レフカメラ。東西ツァイス間の訴訟を経て、従来の商標につき東のツァイスは東側のみ、西のツァイスは西側のみでしか使用しないことで妥結し、この結果として東側のツァイス・イコンが製造したコンタックスは西側世界で販売される分につきペンタコンブランドを使用することとなり、さらに後にプラクチカ(PRAKTICA )と名称を変更し、東西ドイツ併合後はシュナイダー・クロイツナッハが販売を引き継いだ。

ボディ

  • ジンタックスSyntax1938年モックアップ作成、1940年試作品完成) - コンタックスIIから基本設計を流用し、フーベルト・ネルヴィンが主になって1936年から開発された。1940年9月2日ドイツで実用新案登録され、1941年9月1日ドイツ占領下のフランスで特許出願され1942年6月29日交付されている。ペンタプリズムを備え、正立正像アイレベルファインダー、バヨネットマウント、セレン式露出計、金属幕シャッターと最新鋭の技術を盛り込んだ製品だった。レンズはゾナー85mmF2が用意された。ペンタプリズムは上側シャッタードラムとの干渉を防ぐため前のめりに設置されている。正立正像のアイレベルファインダーを装備した一眼レフカメラとしてデュフレックスより開発自体は先行していたが、戦争激化により開発は中止された。この試作品は戦後ソヴィエトに没収され、終戦直後のある時ソヴィエト軍兵士がドレスデンのツァイス・イコン工場に修理のため持参したが、応対に出た社員がその歴史的価値を知らず修理を断って返却してしまい、そのまま行方不明になっている[11]
S
  • コンタックスSContax S1945年8月11日第一次図面完成、1946年9月完全動作の試作品完成、1949年発売) - 戦後ツァイス・イコンの設計部長となったウィルヘルム・ヴィンツェンブルクWilhelm Winzenburg )が中心となって設計した。コンタックスブランドで初めて市販された一眼レフカメラ。ペンタプリズムを採用した量産一眼レフカメラとして世界初。レンズマウントにはパウル・ヒルマンPaul Hillmann )の主張によりM42マウントが採用された。縦走りシャッターでは上側シャッタードラムとペンタプリズムやミラーとの干渉が問題になることから、1943年ジンタックスの開発チームに加わったジークフリート・ベームSiegfried Boehm )により横走り布幕シャッターが採用された。
  • コンタックスDContax D1952年発売[3])/ペンタコンDPentacon D 、1952年発売) - コンタックスSの後継機でシャッターが改良されている。東西のツアイスが商標権で争い、結果として西側に販売される分についてはペンタコンを名乗ることになったが内容は同一。コンタックスFBMより後はプラクチカシリーズに統合された。
  • コンタックスEContax E1956年発売[3])/ペンタコンEPentacon E 、1956年発売) - コンタックスDに露出計を装備した派生型[3]
  • コンタックスFContax F 、1956年発売)/ペンタコンFPentacon F 、1956年発売) - コンタックスDの後継機で、スプリング絞りを採用している。シャッター速度が倍数系列となった。
  • コンタックスFBContax FB1957年[3])/ペンタコンFBPentacon FB 、1957年発売) - コンタックスFに露出計を装備した派生型[3]
  • コンタックスFMContax FM 、1957年発売)/ペンタコンFMPentacon FM 、1957年発売) - コンタックスFにスプリットイメージスクリーンを採用した派生型[3]。東ドイツのカメラ生産がKWに集中され、コンタックスもこの機種からKW製となった[3]
  • コンタックスFBMContax FBM 、1957年発売)/ペンタコンFBMPentacon FBM 、1957年発売) - コンタックスFMに露出計を装備した派生型[3]

レンズ

試作に終わったジンタックスを除きM42マウントであるため世界中のレンズが使える。


  1. ^ 『クラシックカメラ専科No.12、ミノルタカメラのすべて』p.132。
  2. ^ CONTAX製品の補修サービス終了のお知らせ 2015年5月1日 9:01:12 - KYOCERA | カメラ·デジタルカメラ
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』p.022。
  4. ^ 『クラシックカメラ専科No.4、名機の系譜』p.12。
  5. ^ a b c 『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』p.009。
  6. ^ 『クラシックカメラ専科No.12、ミノルタカメラのすべて』p.137。
  7. ^ a b 『クラシックカメラ専科』p.101。
  8. ^ 『クラシックカメラ専科No.12、ミノルタカメラのすべて』p.139。
  9. ^ a b 『クラシックカメラ専科No.12、ミノルタカメラのすべて』p.140。
  10. ^ a b c d 『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』p.023。
  11. ^ a b c 『クラシックカメラ専科No.12、ミノルタカメラのすべて』p.141。
  12. ^ a b 『クラシックカメラ専科No.4、名機の系譜』p.14。
  13. ^ 『ニコンの世界』p.195。
  14. ^ 『クラシックカメラ専科』p.102。
  15. ^ a b c d 『ツァイス・イコン物語』p.168。
  16. ^ a b 『クラシックカメラ専科No.4、名機の系譜』p.13。
  17. ^ 『プロ並みに撮る写真術II』p.196。
  18. ^ 『プロ並みに撮る写真術II』p.143。
  19. ^ 『プロ並みに撮る写真術II』p.142。
  20. ^ a b 『プロ並みに撮る写真術II』p.197。
  21. ^ a b c d e f g h i j 『ツァイス・イコン物語』p.126。
  22. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb 『クラシックカメラ専科No.4、名機の系譜』p.15。
  23. ^ a b c 『クラシックカメラ専科No.12、ミノルタカメラのすべて』p.129。
  24. ^ 『ツァイス・イコン物語』p.143。
  25. ^ 『ドイツカメラのスタイリング』p.37。
  26. ^ クラシックカメラ専科No.29『モダンクラシック』p.114。
  27. ^ a b c d e f 『クラシックカメラ専科No.29、モダンクラシック』p.112。
  28. ^ a b c 『クラシックカメラ専科No.24、バルナック型ライカ図鑑』p.80。
  29. ^ a b 『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』p.154。
  30. ^ 『ツァイス・イコン物語』p.169。
  31. ^ 『クラシックカメラ専科No.11、コレクターズ情報満載』p.162。
  32. ^ 『レンジファインダーニコンのすべて』p.109。
  33. ^ 『レンジファインダーニコンのすべて』p.107。
  34. ^ 『レンジファインダーニコンのすべて』p.112。
  35. ^ 『レンジファインダーニコンのすべて』p.116。
  36. ^ 『レンジファインダーニコンのすべて』p.114。
  37. ^ a b c d e f g h i j k 『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』p.032。
  38. ^ a b c d e f 『カール・ツァイス創業・分断・統合の歴史』p.215。
  39. ^ a b c 『カール・ツァイス創業・分断・統合の歴史』p.214。
  40. ^ - 今日の必ずトクする一言 , 2004年5月26日
  41. ^ 『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』p.032、写真説明には1978とあるが誤植。
  42. ^ a b 『カール・ツァイス創業・分断・統合の歴史』p.219。
  43. ^ 『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』p.032、写真説明には1979とあるが誤植。
  44. ^ a b c d e f g h i j k l 『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』p.033。
  45. ^ a b c d e 『カール・ツァイス創業・分断・統合の歴史』p.220。
  46. ^ a b 『カール・ツァイス創業・分断・統合の歴史』p.229。
  47. ^ a b c d e f g h i j k l 『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』p.034。
  48. ^ a b 『カール・ツァイス創業・分断・統合の歴史』p.233。
  49. ^ a b c d e f g h i 『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』p.035。
  50. ^ 『アサヒカメラ』第81巻第1号(1996年1月号通巻819号)小倉磐夫「1996年のカメラ技術」p.173 より「最後に残った非AFのブランドであるコンタックスがいよいよAF化されるという噂がある。じつは噂ではなく、現実にコンタックスAF化のプロジェクトが進行していることはかなり以前から、関係者がほとんど認めていたことでもあり、時間の問題であったともいえる。(改段落)いままでのコンタックスレンズに手を触れずにAF化するために、昔のマミヤ6のようにバックフォーカシングを行うのではという推測をする向きがあるというが、現時点の一眼レフでそういう可能性のないことは、ちょっと考えれば明らかである。」
  51. ^ a b 『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』p.036。
  52. ^ a b 『プロ並みに撮る写真術I』p.195。
  53. ^ a b 『プロ並みに撮る写真術I』p.206。
  54. ^ a b c d 『プロ並みに撮る写真術I』p.196。
  55. ^ a b 『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』p.038。
  56. ^ a b c d e f 『プロ並みに撮る写真術II』p.199。
  57. ^ a b c d e f g 『中判645カメラ完全攻略マニュアル』p.116。
  58. ^ a b c d 『プロフェッショナル中判カメラ』p.36。
  59. ^ a b c d e f 『プロフェッショナル中判カメラ』p.129。
  60. ^ a b 『カール・ツァイス創業・分断・統合の歴史』p.225。


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