ウォルター・シラー 若年期と教育

ウォルター・シラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 15:18 UTC 版)

若年期と教育

シラーは1923年3月12日ニュージャージー州ハッケンサックで生まれた。父のウォルター・M・シラー・シニア(Walter M. Schirra Sr.)はフィラデルフィア出身で、第一次世界大戦中はカナダ空軍に入隊し、ドイツで爆撃や偵察の任務に就いた。戦後は、ニュージャージー州でバーンストーミング英語版(曲芸飛行)をしていた。母のフローレンス・シリト・リーチ(Florence Shillito Leach)は夫の曲芸飛行ツアーに同行し、飛行機の翼の上を歩くスタントをしていた[3]:9–11[4]。父方の祖父母はバイエルンスイスの出身で、元々はサルデーニャ人の家系であった。

シラーはニュージャージー州オラデルで育った。ボーイスカウトに加わり、ニュージャージー州オラデルの第36分団のファースト・クラスとなった[5]。1940年6月にニュージャージー州イングルウッドのドワイト・モロー高校を卒業し、ニューアーク工科大学(現在のニュージャージー工科大学、NJIT)に入学した。大学では予備役将校訓練課程(ROTC)を受講した。1941年12月の真珠湾攻撃を受けて、シラーは士官学校への入学を決意した。父は陸軍士官学校への入学を勧めたが、シラーは海軍兵学校への入学を決めた。海軍兵学校では戦時中は短縮課程が組まれていたため、シラーは入学から3年で1945年に理学士号を取得した[3]:10–13[6][7]

軍歴

F3Hデーモン納入時のシラー(右から2人目)とマクドネル・エアクラフトの設計チーフのデービッド・S・ルイス英語版(1958年頃)

海軍兵学校を卒業後、1945年6月6日にアメリカ海軍少尉に任命され、大型巡洋艦「アラスカ」(USS Alaska, CB-1)に配属されたが、シラーが太平洋戦線に向かって出発した翌日に第二次世界大戦は終結した。日本の降伏後、シラーはアメリカに帰還した。その後、中国の青島に駐留し、揚陸指揮艦エステス英語版」(USS Estes, AGC-12)に配属された。中国から帰国した後、シラーはペンサコーラ海軍航空基地英語版で海軍飛行士としての訓練を開始した[3]:16–20

1948年に訓練を終了して海軍飛行士の資格を取得し、ロードアイランド州クオンセット・ポイント英語版の第71戦闘機隊(VF-71)に配属された。VF-71で、シラーはF8Fベアキャットに乗り、数年後にはジェット戦闘機F9Fパンサーへの移行に備えて、F-80シューティングスターのジェット移行訓練に参加した。1950年6月の朝鮮戦争勃発時には、空母「ミッドウェイ」で地中海に派遣された。戦闘経験を積むためにアメリカ空軍との交換プログラムに応募して選ばれ、F-84サンダージェットの飛行訓練を受けた[3]:21–27

シラーは当初、第154戦闘爆撃機飛行隊として日本板付アメリカ空軍基地に配属され、そこから朝鮮半島へ出撃していた。戦線の北上に伴い、この飛行隊は大邱にある基地に再配置された。8か月の派遣期間中に、シラーは90回の戦闘任務をこなし、MiG-15を2機撃墜した[3]:29–32[7]

朝鮮での任務を終えた後、シラーはカリフォルニア州チャイナレイク海軍兵器試験場英語版テストパイロットとなった。チャイナレイクでシラーは様々な兵器システムのテストを行い、初めて空対空ミサイル「サイドワインダー」を発射させた。シラーはミラマー海軍航空基地(現 ミラマー海兵隊航空基地英語版)に配属され、海軍の最新ジェット戦闘機であるF7Uカットラスのテストを行った。その後、モフェット飛行場英語版に移って、F7UカットラスやF3Hデーモンへの移行訓練を行った。空母「レキシントン」でアジアに派遣された後、南カリフォルニア大学(USC)で航空安全訓練を受け、1958年に海軍テストパイロット学校に入学した[3]:33–43

海軍テストパイロット学校では、後に宇宙飛行士となるジム・ラヴェルピート・コンラッドらと同じ20期生として、F4DスカイレイF11FタイガーF8Uクルセイダーなど数多くの航空機の操縦を学んだ。卒業後、シラーはパタクセント・リバー海軍航空基地のテストパイロットとなり、F4Hファントムが空母艦載機として使用できるかどうかを調べるために操縦を学んだ[3]:43–46

NASAでのキャリア

マーキュリー計画

シラー(右から3番目)とマーキュリー計画の仲間たち(1961年)

1959年2月、シラーは、アメリカ初の有人宇宙飛行計画であるNASAマーキュリー計画の候補者として、アメリカ軍のテストパイロットから選ばれた110人の中にシラー、ラヴェル、コンラッドの3人がいた。数回のテストを経て、シラーは1959年4月に7人の宇宙飛行士「マーキュリー・セブン」の一員に選ばれた[3]:46, 57–63

マーキュリー計画において、シラーは生命維持装置と与圧飛行服を担当した。また、ジョン・グレンと一緒にカプセルの設計にも携わった。アラン・シェパードマーキュリー・レッドストーン3号(フリーダム7)のミッションでは、スコット・カーペンターとシラーがF-106デルタダートで追跡を行った。シラーは当初、マーキュリー計画の第2回軌道飛行にドナルド・スレイトンのバックアップとして参加していたが、スレイトンが病気により宇宙へ行けなくなったため、スコット・カーペンターに交代した。シラーは代わりに第3回軌道飛行に予定された[3]:65, 75–76[8]

1962年10月3日午前7時15分、シラーが乗るマーキュリー・アトラス8号(シグマ7)が打ち上げられた。マーキュリー・アトラス8号は、飛行初期に小さな軌道修正を行った後、軌道に乗った。その後、シラーはリアクションコントロールシステムを使って手動で宇宙船の位置と操縦を行うデモンストレーションを行った。カーペンターのマーキュリー・アトラス7号(オーロラ7)ミッションでナビゲーションの問題が発生したため、NASAとシラーはカプセルを手動で操作する際の工学と人的要因に焦点を当てた。シラーは、宇宙服の温度が上昇し、最高で32℃に達したことを報告した後、宇宙服の冷却システムを手動で調整した。宇宙船でのテストを終えた後、シラーは目の見えない無重力環境での操作能力をテストした。シラーはミッション中、自動制御装置のバックアップとして、手動で宇宙船を操縦する能力を発揮した。6回の周回の後、シラーはアフリカ上空で手動で宇宙船の位置を合わせ、逆推進ロケットに点火した。マーキュリー・アトラス8号は、回収船である航空母艦「キアサージ」から8キロメートル離れた太平洋中央部に着水した。マーキュリー・アトラス8号が回収船に引き上げられた後、シラーは宇宙船から出るための爆薬を使ったハッチを作動させたときに大きな打撲傷を負った。これにより、ガス・グリソムマーキュリー・レッドストーン4号(リバティベル7)のミッションでハッチが吹き飛んだのは、グリソムのミスによるものではないことが証明された。帰還したシラーは、10月16日、家族とともにホワイトハウスに招待され、ケネディ大統領と対面した[3]:85–94[9]

ジェミニ計画

ジェミニ6号の訓練を行うシラー(1965年)

当初、ジェミニ3号の乗組員はアラン・シェパードが船長、トーマス・スタッフォードがパイロットの予定だったが、シェパードがメニエール病と診断されたため乗組員から外され、スタッフォードは予備乗組員となった。シェパードの代わりの予備乗組員の船長はシラーとなり、その後、この2人がジェミニ6号の乗組員に予定された。ジェミニ6号は当初、アジェナ標的機との初の軌道上ドッキングを行う予定だった。1965年10月25日、シラーとスタッフォードがジェミニ6号の中で打ち上げを待っていたとき、同日に打ち上げられたアジェナ標的機が軌道上で爆発したため、ジェミニ6号の打ち上げは中断された。プログラムマネージャーは、アジェナの代替機が入手できるのを待つのではなく、ミッションを修正してジェミニ6-A号と名付け、フランク・ボーマンジム・ラヴェルが搭乗するジェミニ7号とのランデブーを試みることにした。1965年12月4日にジェミニ7号が打ち上げられた。

12月12日にジェミニ6-A号の打ち上げが行われることになったが、点火後2秒も経たないうちにエンジンが停止してしまった。エンジンが停止した場合、宇宙飛行士は射出座席を用いて宇宙船から脱出する手順になっていたにもかかわらず、シラーは自分とスタッフォードの射出座席を作動させないことを選択した。これは、それを使用することによりミッションがさらに遅延し、場合によってはキャンセルとなる可能性があるのを避けるためだったが、2人が負傷する可能性も高まるものだった。原因究明と対策の後、ジェミニ6-A号は12月15日に打ち上げられ、5時間の飛行の後、ジェミニ7号とのランデブーに成功した。2つの宇宙船はお互いに最短で1フィート(30センチメートル)の距離まで接近し、5時間にわたって相対的にほぼ静止英語版していた。ランデブーの後、ジェミニ6-A号は12月16日に軌道を脱離して、ケープカナベラルの南東の大西洋上に着水し、空母「ワスプ」によって回収された[3]:157–168[10]:50–76

ジェミニ6-A号のミッション中のシラーは、ミッションがクリスマスが近い時期であることから、管制官に対して色々な悪戯をした。まずサンタクロースを暗示する未確認飛行物体の目撃情報を報告した後、密かに持ち込んだホーナー社製のハーモニカで『ジングルベル』を演奏し、スタッフォードがベルで伴奏した[3]:165[11]

アポロ計画

アポロ7号船長の宇宙服を着たシラー(1968年5月)
アポロ7号・8号の乗組員、チャールズ・リンドバーグ、ファーストレディのレディ・バード・ジョンソンジョンソン大統領、ウェッブNASA長官、ハンフリー副大統領と一緒に記念書類にサインするシラー(前列左から3人目)(1968年)

1966年半ば、シラーは、ドン・エイゼルウォルター・カニンガムとでチームを組み、アポロ1号[注釈 2]と同じミッションプロファイルで、アポロ宇宙船の2回目の有人飛行テストを行う際の船長を務めることになった。シラーは同じミッションを2度繰り返すことに反対し、シラーのチームはガス・グリソムエドワード・ホワイトロジャー・チャフィーのアポロ1号の予備乗組員となった。シラーのチームは1967年1月26日にコマンドモジュールでテストを行い、翌日ヒューストンに向かう途中で、グリソムらアポロ1号の乗組員がテスト中の火災で死亡した。シラーのチームは、初の有人飛行のメイン乗組員となった。これは改訂されたミッション番号計画ではアポロ7号となり、司令船の安全性を改善するために1968年秋まで延期された[3]:180–193

シラーは、マクドネル・エアクラフト社の社員であるギュンター・ウェントを、宇宙船の打ち上げ準備を担当するパッドリーダー(発射台責任者)として迎えたことで、安心感を得ていた。しかし、アポロの請負業者がノースアメリカン・エイヴィエーションになったことで、ウェントはパッドリーダーではなくなった。アポロ1号の事故の後、シラーは自分のアポロ飛行のパッドリーダーはウェントでなければならないと強く感じ、ドナルド・スレイトンとノースアメリカン社の打ち上げオペレーションマネージャーであるバスティアン(バズ)・ハローを説得して、ウェントをアポロ7号のパッドリーダーとして採用した。ウェントは、残りのアポロ計画とスカイラブ計画においてパッドリーダーを務め、スペースシャトル計画にも参加した後に引退した[3]:195[12]

アポロ7号は1968年10月11日に打ち上げられ、シラーは3度宇宙に行った初の人間となった。打ち上げ時、ロケット打ち上げ1分以内の初期の段階に問題が発生して飛行を中止するには危険な強風が吹いていることからシラーが打ち上げに反対していたにも関わらず、管制官が発射を強行したことから、管制官とシラーとの間に確執が生まれることとなった。軌道に到達したアポロ7号の宇宙船は、S-IVBとの宇宙ランデブーおよびドッキング訓練を行い、アポロ月着陸船の回収をシミュレートした。ミッションの2日目には、乗組員が宇宙船の中から初めてテレビ生中継を行った[3]:199–203[注釈 3]

ミッション中、シラーは風邪をひいてしまい、それをドン・エイゼルに伝えた。シラーは、密閉された宇宙服の中で鼻づまりを起こすことを想定して、再突入時にヘルメットを被らないことを管制官に提案した。クリス・クラフト英語版とドナルド・スレイトンは再突入時のヘルメット着用を要求したが、アポロ7号の乗組員3人はこれを拒否し、ヘルメットなしで再突入を行った。アポロ7号は1968年10月22日にバミューダの南東に着水した[3]:206–209[7]

シラーはアポロ7号の打ち上げ前に、この飛行を最後に宇宙飛行士を引退することを決めており、1969年7月1日にNASA宇宙飛行士を引退した。シラーの宇宙飛行士としての最後の任務は、ニール・アームストロングの月面着陸調査車の墜落事故の調査だった。シラーは、その原因を機械的な故障とし、同車を使った訓練の中止を勧告した[3]:208,211,216。同日付けでアメリカ海軍も退役した。最終階級は大佐(Captain)だった[7]


注釈

  1. ^ アメリカ以外の宇宙船を含む場合は野口聡一も3種類(スペースシャトル・ソユーズTMAクルードラゴン)に搭乗している[2]
  2. ^ 「アポロ1号」は当時は非公式の名称であり、公式の名称になったのは事故後のことであるが、本項目では「アポロ1号」の呼称で統一する。
  3. ^ 1963年のゴードン・クーパーマーキュリー・アトラス9号のミッションでも、実験的にテレビ中継が行われたが、これは一般には放送されなかった[13]

出典

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