ウォルター・シャーローとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ウォルター・シャーローの意味・解説 

ウォルター・シャーロー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 20:29 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ウォルター・シャーロー
Walter Shirlow
生誕 1838年8月6日
イギリス
スコットランドペイズリー
死没 1909年12月26日
スペイン王国マドリード

ウォルター・シャーロー(Walter Shirlow、1838年8月6日 - 1909年12月26日)はスコットランド生まれのアメリカ合衆国の画家である[1]

略歴

スコットランド・レンフルーシャーペイズリーで生まれた。1840年に家族はアメリカ合衆国に移住した。シカゴニューヨークで小切手などの印刷工場で版画家として働いた。1861年に初めてナショナル・アカデミー・オブ・デザインの展覧会に出展した。1868年に「シカゴ・アカデミー・オブ・デザイン」(Chicago Academy of Design:後にシカゴ美術館)の教師となった[2]。有名な教え子にはフレデリック・ステュアート・チャーチがいる。1870年から1877年の間、ヨーロッパに渡り、ミュンヘン美術院に学び、ラーブ(Johann Leonhard Raab)、ヴァーグナー(Alexander von Wagner)、アルトゥール・ランベルク (Arthur von Ramberg)、ヴィルヘルム・リンデンシュミット(Wilhelm Lindenschmidt)に学んだ。

アメリカに帰国した後は、新しく設立されたニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで数年間教えた。1887年にナショナル・アカデミー・オブ・デザインの準会員となり翌年正会員となった。

ナショナル・アカデミー・オブ・デザインの保守性に対抗するために創設された、アメリカ芸術家協会(Society of American Artists)の創立者の一人で、会長も務めた。

スペインのマドリードで没し、マドリードのイギリス陣墓地に葬られた[3]

ドイツ留学時代の「鐘造り」("The toning of the bell")が代表作のひとつである。

作品

脚注

  1. ^ Dictionary of American Biography (1936) Charles Scribner's Sons, New York
  2. ^ American Art Annual, Volume 8. MacMillan Company. (1911). pp. 401. https://books.google.com/books?id=HcBBAAAAYAAJ&pg=PA401#v=onepage&q&f=false 
  3. ^ Mrs. Florence M. Shirlaw (1910) "Biographical Sketch of Walter Shirlaw", Special Exhibition Catalogue, City Art Museum of St. Louis

参考文献

  • Wilson, James Grant; Fiske, John, eds. (1900). "Shirlaw, Walter". Appletons' Cyclopædia of American Biography. New York: D. Appleton.



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ウォルター・シャーロー」の関連用語

ウォルター・シャーローのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ウォルター・シャーローのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのウォルター・シャーロー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS