羯
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羯(けつ)は、4世紀の中国北部の山西に存在した小部族。その派生については匈奴の他、小月氏であるとも言われる。五胡十六国時代に石勒の統治によって後趙を建てた。羯人は食人族の為、後趙が滅んだ350年頃の漢人の冉閔によりほぼ歴史から姿を消した。
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- ^ Medieval Chinese Warfare 300-900, David Graff,https://books.google.bg/books?id=y_KCAgAAQBAJ&lpg=PT99&dq=Jie%20people&pg=PT98#v=onepage&q=Jie%20people&f=false
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- ^ "Zur Frage nach der Stellung des Tschuwassischen" Journal de la Société finno-ougrienne 38, 1922, pp. 1–34
- 1 羯とは
- 2 羯の概要
羯
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詳細は「羯」を参照 羯(けつ)は漢代は匈奴に服属していた北西部の遊牧民であり、政治・文化的に匈奴の影響を受けていた。月氏、康居類縁のトカラ系民族、東イラン系など諸説あり、その特徴は目が窪み鼻が高く髭の濃い顔立ちであったという記録があることから、西方系の種族中心の混血であると推測される。 羯族は石勒の統制下で前趙を滅ぼして華北の大部分を征服した後趙を建てた。後趙が衰退すると、349年に漢人の部将冉閔が羯族を大量に殺し、その後羯族はほぼ歴史から姿を消した。
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