中観派
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中観派(ちゅうがんは、梵: माध्यमिक, Mādhyamika[1], マーディヤミカ)は、インド大乗仏教において、瑜伽行派(唯識派)と並ぶ2大学派のひとつ[2]。龍樹(りゅうじゅ、Nāgārjuna, ナーガールジュナ、150年 - 250年頃)[3]を祖師とし[4]、その著作『中論』などを基本典籍とする学派[2][4]。『中論』を根底として般若空観を宣揚した[5]。縁起と空の思想を説き[4]、中(madhyama)もしくは中道(madhyamā pratipat)の立場を重んじる[6]。
注釈
出典
- ^ ブリタニカ『中観派』 - コトバンク
- ^ a b c d e f g h i j 総合仏教大辞典編集委員会 『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月、994-995頁。
- ^ 中村元『現代語訳 大乗仏典7 論書・他』東京書籍、11頁, 14-15頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年10月、705-706頁。
- ^ a b c d e f g h 中村元 『広説佛教語大辞典』中巻 東京書籍、2001年6月、1179-1180頁。
- ^ a b 中村・2005年250頁
- ^ a b c d e 斎藤明「中観思想の成立と展開」『シリーズ大乗仏教6 空と中観』高崎直道監修、桂紹隆・斎藤明・下田正弘・末木文美士編著、春秋社、2012年、7-10頁。
- ^ madhya (मध्य). spoken sanskrit dictionary.
- ^ 中村元『広説仏教語大辞典』東京書籍、2001年6月、1183頁。
- ^ 総合仏教大辞典編集委員会(編)『総合仏教大辞典』(第一版)法蔵館、1988年1月、997頁。
- ^ 赤羽 2012, pp. 1230–1231.
- ^ 赤羽 2012, pp. 1220–1230.
- ^ mAdhyamika (माध्यमिक). spoken sanskrit dictionary.
- ^ madhyamikA (मध्यमिका). spoken sanskrit dictionary.
- ^ 中観派 - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
- ^ a b 立川武蔵 『空の思想史』 講談社学術文庫、65-66頁。
- ^ 中村・2005年 250-252頁
- ^ 中村・2005年 76頁
- ^ a b c 中村・2005年 81頁
- ^ a b c d 中村・2005年 68-71頁
- ^ 中村・2005年 252, 257-258頁
- ^ a b c d e f g h i 中村・2005年 250-252頁
- ^ 中村・2005年 252-258頁
- ^ 中村・2005年 257-258頁
- ^ a b c d e f g 中村・2005年 430-435頁
- ^ a b 江島 1990, pp. 101–103.
- ^ 中村元ほか編 『岩波仏教辞典 第一版』 岩波書店、1989年12月、567頁。
- ^ 森山 2007, pp. 53–54.
- ^ a b c d 森山 2017, pp. 1–2.
- ^ a b 森山 2001, pp. 41–42.
- ^ 世界大百科事典 第2版『ハリバドラ』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『アティーシャ』 - コトバンク
- ^ 望月 2006, pp. 85–90.
- ^ a b 四津谷 2008, p. 538.
- ^ 小林 2005, pp. 492–491, 486.
- ^ a b c d e f g h 中村・2005年 434-435頁
- ^ 『龍樹』中村元 講談社学術文庫 p436-450
- ^ a b c d e 中村・2005年 438-439頁
- ^ a b c d e f g h i j k 中村・2005年 458-459頁(文献案内)
中観派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/29 03:01 UTC 版)
『中論』の第七章では、有為法が実有なるものとして成立しえないことを述べたあとで、「(生と住と滅とが成立しないが故に)有為は成立しない。また有為が成立しないが故にどうして無為が成立するであろうか」と主張している。ただし仏教学者の中村元は、有為と無為とは互いに排除する関係にある以上、有為が成立しないとしても無為は成立するかもしれないとしており、一般に『中論』の推論の形式には形式論理学的には不正確なもののあることを、仏教学者の宇井伯寿は指摘している 。中村は、これは中論が縁起に関し相依説(あらゆるものは相関関係をなして成立している)を主張しているということを考慮するならば、「甲によって乙があり、また乙によって甲がある」と言いうると述べている。
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中観派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 10:03 UTC 版)
中観派の祖である龍樹 は、倶舎論に「諸行の有為なることは、4つの本相による。」とあるのに対応し、中論において「もし生ずること(生)が有為であるならば、そこには3つの特質(相。すなわち、生、住、滅)が存するであろう。もしもまた生が無為であるならば、どうしてつくられたものをつくられたものとする特質(有為相)があろうか」と述べた。
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中観派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:49 UTC 版)
龍樹(ナーガールジュナ)は、説一切有部が諸法に固有の性質(自性)を認めたうえで縁起や因果を説明することを批判した。龍樹は、諸法は空すなわち無自性であるから縁起し、また縁起するから自性をもたず空であるとした。 龍樹は、『般若経』に影響を受けつつ、『中論』等で、説一切有部などの法有(五位七十五法)説に批判を加える形で、有為(現象、被造物)も無為(非被造物、常住実体)もひっくるめた、徹底した相依性(そうえしょう、相互依存性)としての縁起、いわゆる相依性縁起(そうえしょうえんぎ)を説き、中観派、及び大乗仏教全般に多大な影響を与えた[要出典]。 中村元によれば、中論の主張する縁起は、有部の縁起論とは著しく相違するが、後世中国の華厳宗の法界縁起の思想には非常に類似しているという。法界縁起の説においては、有為法・無為法を通じて一切法が縁起していると説かれるが、その思想の先駆は中論に見いだされるという。
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