鏡像生命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/14 12:06 UTC 版)
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鏡像生命[1](きょうぞうせいめい、英語: mirror life, mirror-image life) は仮説上の生命の形態の一つであり、分子の構成要素が現在生物が用いているものと3次元的に重ね合わせられない鏡像異性体であるものである[2][3][4]。ルイ・パスツールにより鏡像生命が実在する可能性について初めて言及された[5][6]。このような鏡像生命の形態を構成する分子は人為的にある程度合成可能であり、自然界にも稀に鏡像型を使用する生物は存在するものの、完全に鏡像型に頼っている生物は確認されていない[5][7][8][9][10][11]。2016年以来、鏡像型のリボソームを化学的に合成する研究が進められている[7][12][13]。理論上、完全な鏡像生命を作り上げることは可能であるが[14][15]、鏡像生命を作り上げることは未解明なことが多すぎるため今日の科学の到達範囲を超越しているともいわれる[16]。鏡像生命を作ることは取り返しのつかない地球の生態系への害を及ぼしうるという意見があり、2024年には安全性が担保されないかぎり鏡像生命は作るべきではないという提言がなされた[17]。
生命におけるホモキラリティー
地球上における生命にとって重要な物質の多くは2種の鏡像異性体が存在し、「左手型(L型)」・「右手型(D型)」と表現される。この「〇手型」は分子の純粋な溶液へ光を当てたときに偏光面が回転する方向を示しているが、生物ではほとんど片方が使われる[18]。RNAとDNAはD型の糖のみを含んでおり、リボソームから生成されるタンパク質はL型のアミノ酸のみで構成される[注 1]。この現象はホモキラリティーとして知られている[20]。ホモキラリティーという性質が生命の誕生前と誕生後どちらで発生したのか、生命の構成要素としてはこの特別なキラリティーである必要性はあるのか、はたまた生命はホモキラリティーという性質を持たないといけないのか、などは定かではない[21]。キラリティーが異なるアミノ酸が混じったタンパク質ではうまくフォールディング(タンパク質の折り畳み)が起こらず機能しない。しかし、機能する対象の基質も同様に鏡像型であれば同一の機能を持つ鏡像型のタンパク質の生成は可能である[20]。
分子を鏡像型にしても電磁気力はパリティ対称性より変化しない。しかし、弱い相互作用には微小な変化があり(パリティ対称性の破れ)、理論的には自然界のアミノ酸や糖の鏡像異性体の方が自然界にない方よりもごくわずかながら安定化している[22]。しかし、この効果が鏡像分子の機能へ影響を及ぼすのか、自然界のホモキラリティーという性質を説明できるほどのものなのかは不明である[23]。
鏡像生命の再現
鏡像生命は通常の生命から個別に発生する可能性は極めて低いと考えられている。一方で、人為的に作成することは可能と思われる[17]。2002年以来のウイルス人工合成[24]、2010年の部分的な細菌の合成[注 2][24]、2025年のリボソームの試験管内での再現の成功[26]のような合成生物学という分野の発展により小分子から生きている細胞を完全に合成できる可能性が高まっている。これにより生物の構成要素が現在の生命の鏡像異性体で構成された鏡像型の細胞も合成できうるということである[14]。タンパク質では鏡像型が合成されているものもあり、2016年にポリメラーゼで再現に成功し[7]、2022年にはT7 RNAポリメラーゼも合成できている[10]。
通常の生物を鏡像型で再現するために、細胞の構成要素も鏡像型のものを用いる必要がある。鏡像型のタンパク質を作るためにはL型アミノ酸をD型アミノ酸に置き換え、核酸であればD型からL型に変えることで成功しうる[27]。細胞膜を構成するリン脂質もキラリティーという性質を持つため、アメリカの遺伝学者、ジョージ・チャーチはアキラル(キラリティーという性質がない)な脂肪酸をリン脂質の代わりに細胞膜に使えるのではないかと提唱した[27][注 3]。
鏡像型の動物は鏡像型の植物から生み出された鏡像型の食事が必要であると考えられる。鏡像型のウイルスは自然界の細胞には攻撃できず、反対に自然界のウイルスも鏡像型の細胞へ攻撃できないと考えられる[27]。
鏡像生命は潜在的な危険も持ち合わせる。例えば、鏡像型のシアノバクテリアが存在すると、生存のためにはアキラルな栄養素と光による光合成で十分なので、天敵のいない環境下で鏡像型の糖を生成し、食物連鎖の底辺に存在する糖の性質を変えることで地球の生態系を乗っ取ってしまう虞がある[27]。L-グルコースを消化できる細菌も存在する[31]が、このような例外的な生物が鏡像生命に予期しない利益を与えうる。近年の計算に基づくエビデンスによると、従来の抗生物質は鏡像型の対象微生物には効かないことが示されている。そのため、in silico、つまりコンピュータによる安全な方法やバイオハザードの虞のない鏡像生命研究の枠組みの確立が進められている[32]。
直接的な応用
鏡像生命の直接的な応用法として、通常の生命で産生される物質の鏡像異性体の大量生産につながることが考えられる。
- 薬剤 - 医薬品の中には鏡像異性体によって薬理活性が異なるものが存在する[32]。
- アプタマー (L-RNAアプタマー) - ベルリンのNoxxon Pharma社は「鏡像異性体を利用した生化学は潜在的にビジネスチャンスのある分野であろう」と願っている。Noxxon Pharma社ではアプタマーという短鎖のDNAやRNAの鏡像型の化学合成を行っており、タンパク質などの治療標的に結合し、活性を阻害するものを目指している。がんを含めヒトの疾患に対する鏡像型アプタマー候補は臨床試験にまで及んでいる。鏡像型では体内の酵素によって分解されないため、効果が改善しうる。Noxxon Pharma社の最高科学責任者のSven Klussmannは鏡像型のDNAを複製できるプロセスができればよりアプタマーの合成が容易になるだろう、と述べている[33]。
- L-グルコース - 通常のグルコースの鏡像異性体であり、普通の糖と同じような味であるが、代謝は同様ではない。製造コストが高いことから、市場には出されていなかった[34]。近年の研究で生産量が多く、安い生産法が示されたが、下剤としての作用を持つため、甘味料としての用途では使われないと考えられる[35]。
このように、鏡像生命を作ることで鏡像型の薬剤を作成することができるようになる可能性もあるが、他の方法により作成することができるのではないか、といわれている。まだ鏡像生命を作ることに対する利点が限定的であるため、生じうるリスクに対して享受するものに乏しいと考えられている[17]。
鏡像生命作成の問題点
2024年12月、合成生物学、生理学、免疫学、微生物学、進化生物学、宇宙生物学などの多岐にわたる分野の研究者らから成る連合が、鏡像生命を作ることは、前例がなく不可逆的な害を全世界のヒトの健康および生態系へ与える可能性がある、と警鐘を鳴らした[17][36]。鏡像型の細菌は免疫系の防御システムから逃避し、自然界へ侵略していく可能性があり、かなりの植物やヒトを含む動物に蔓延する致死的な感染拡大を引き起こしてしまう可能性がある。これらのリスクを考慮して、安全性が担保されないかぎり鏡像生命は作られるべきではないと結論づけられた[17]。なお、鏡像生命の作成に貢献するような全ての研究を停止すべき、という提言ではなく、鏡像生命の科学や治療への応用はむしろ継続されるべきである、と述べられている[17]。
しかし、この結論に全科学者が賛同の意を示しているわけではない。Science Newsの記事にてテキサス大学オースティン校のAndrew Ellingtonは「このような方針を決定するのは無責任である」と訴えており、 「30年後にサイバー犯罪が起こりうる可能性を憂いてトランジスタを禁止するようなものだ」と例えた。彼はまた、鏡像生命体が重大な脅威を引き起こすかどうかすらまだ分からない、とも主張した。また、ジョンズ・ホプキンス大学のGigi Gronvallは論文で述べられた懸念について、「非常に理論的」と表現した。彼女はリスクの可能性についてのオープンディスカッションへは協力的な一方、研究やその資金補助の禁止は時期尚早、という立場であり、「That really puts the cart before the horse.(馬車を馬の前につないでいる=本末転倒である)」と述べている[37]。
2024年に鏡像生命作成についての提言がなされたのち、2025年6月12日から6月13日にかけてパリで鏡像生命の危険性についての会議が行われた[38]。この会議により、自主規制のみでは十分でない、つまり更なる規制が必要という意見も出されており、今後のマンチェスターやシンガポールでの会議が予定されている[39]。
鏡像生命による感染を防ぐために、様々な生物学的封じ込めによる対策が考えられている。例えば、鏡像生命は鏡像型の栄養がなければ生きていくことができないので、制御下以外では逃げ出さないような環境の構築が予防策の一つとしてある。しかし、何らかのアクシデントが発生してしまう虞もある[17]。
脚注
- ^ 多くの細菌や菌類はリボソームによらずペプチドを生成することができ、D型のアミノ酸も含んでいる。例えば細胞壁を構成するペプチドグリカンはリボソームを介さずにATP依存性アミノアシルリガーゼと呼ばれる酵素でアミノ酸が次々に付加されていくことで合成されており、その中にはL型アミノ酸もD型アミノ酸も含まれている[19]。
- ^ マイコプラズマの一種であるMycoplasma mycoidesのゲノムをMycoplasma capricolumに受容させたJCVI-syn1.0という合成細菌[25]。
- ^ 厳密にはリン脂質はアキラルでないといけないわけではない。実在する生物においてもリン脂質の両方の異性体を細胞膜に使う例が実験的に再現できている。真核生物や細菌ではグリセロール3-リン酸(G3P)という異性体の一方を、古細菌ではグリセロール1-リン酸(G1P)という異性体のもう一方を使っている[28]。これを大腸菌へ遺伝子工学的に混ぜ合わせることで再現に至った[29]。自然界で混合した細胞膜が存在する遺伝子的なエビデンスも化学的分析から確かなものとなっている[30]。
出典
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関連項目
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