純粋持続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/09 09:50 UTC 版)
純粋持続(じゅんすいじぞく、仏: durée pure、英: pure duration、独: reine Dauer )は、アンリ・ベルクソンの哲学における基本概念の一つである。
ベルクソンは測定できる量的な時間 (例:「人間が100mを走るのにかかる時間」等) 以外に、計測できない質的な時間 (例:「退屈な時間」「一瞬の出来事」等) があると主張した。ベルクソンはこの計測できない時間を純粋持続と名付けた[1]。
実在的持続(仏: durée réelle )、真に生きられる持続(仏: durée réellement vécue )とも呼ばれる[1]。ベルクソン思想の特色は、「持続という側面 (持続の相の下) から (仏: sub specie durationis )」世界を理解する点にある[2]。純粋持続はベルクソン最初の著作である『意識に直接与えられたものについての試論(仏: Essai sur les données immédiates de la conscience ) 』に登場する[3][注釈 1]。

純粋持続の概要
ベルクソンによれば、人間の意識の本質的で純粋な状態は絶え間ない運動と流れであり、要素に分割することはできない[4]。また、それは量的には測定可能であるが、質的には測定不可能であり、過去・現在・未来が明確に区切られることなく、互いに溶け合いながら進んでいく[5]。 このような持続は人それぞれに独自性をもち、個性的かつ唯一のものである。それは常に新しく、行為を創造しながら自己をも創造し、その展開は予見することができない[6]。ベルクソンはこのような質的・連続的時間の経験を「純粋持続」と名づけ、空間的・機械的な時間概念と対置した[1][7][8]。彼にとって、持続は単なる時間の流れではなく、意識の深層における生命的で創造的な運動そのものであった[9][10]。
一方、物体や物質的存在は、純粋持続とは正反対の性質をもつ[2]。それらは不変不動であり、さまざまな形式で計量可能である。また、同一のものを何度でも再生産できるため、一般的かつ非個性的であり、容易に代替可能である[7]。これらの存在は他の物体と明確に区別されるだけでなく、自ら新たなものを創造することもない。そして、その状態の変化は、一定の法則に従って予測することができる[2]。
物理時間との対比
ベルクソンによれば、物体や物質的存在は、人間の「知性[11]」によって把握される[12]。知性の働きは、現実の運動や変化をいったん静止させ、区分された対象として固定することにある[7]。こうした操作によって、知性は連続する現象を切り分け、「空間的」な構造として捉えるようになる[13]。知性は、こうして得られた不動の諸点の間に法則的な関係を見出し、それを一般的な言語や記号によって表現し、思考を展開していく[14]。このような認識の枠組みは、数学や物理学においては有効であるが、純粋持続のような質的で連続的な意識の流れを捉えるには適していないとされる[15]。
ベルクソンは、物理的時間と純粋持続を以下のように対比している。すなわち、前者は測定可能・均質・空間的であり、後者は質的・連続的・分割不可能である[1][2]。彼はこの対比を説明するために、映写機と砂糖水の例を用いている[16]。
映写機では、1秒間に約24フレームの静止画像が連続して映し出されており(フレームレート[17])、この構造は知性が時間を「離散的 (断続的な)[18]」かつ等間隔な「点」の集合として空間的に再構成していることを象徴している[19][20]。 これに対し、ベルクソンの言う純粋持続は、静止画像の集合ではなく、一つの映像として切れ目なく流れ続ける質的な体験である[21]。さらに、映像は観察者が外から「見る」ことができ、再生速度を変えたり、逆回転させたりすることも可能である。こうした外的・可逆的 ( もとの状態に戻ることが出来ること ) な操作が可能である点においても、物理的時間の性質が表れている[22]。
一方、砂糖が水に溶ける過程も、物理的には時計によって測定可能であり「1分間」といった量的な単位で表される。こうした時間は、均質化された抽象的時間である[23]。しかし、実際に人が砂糖が溶けきるのを待つあいだに経験する時間は、退屈で、質的で、分割不能な持続である[24]。そこには、物理時間では捉えきれない意識の流れが存在する[25]。
このように、物理的時間は外部から測定・操作可能な均質な時間であるのに対し、純粋持続は主観的な意識の内側で流れる唯一無二で不可逆的な時間の体験である[26]。
意識と持続
ベルクソンは意識を次のように捉えている。意識とは、すべての生物に潜在的に備わっている本質的な要素である。そして同時に、より高度な認識と具体性を求めて進化し続ける生命の根本的な傾向性でもある[27]。
ベルクソンは、人間の内面的な精神生活について、生涯にわたって一定の距離を置いて慎重に向き合っていた。また、実際に生きられている豊かな内面体験を外から観察するような対象として扱い、理性的・論理的な枠組みの中で分析可能な抽象的概念に切り詰めてしまうような哲学的手法については批判的な立場を取っていた[23]。しかし、彼が時間の本質を論じる過程で、人間の内面的な精神生活に踏み込むことは避けられなかった[23]。 ただし、それは時間を単に「心理的」な現象として理解するためではない。むしろ、物質世界での人間の行動が、時間を空間的な尺度へと還元し、静的な「目印」として認識してしまうことに対する問題意識からである[4]。
ベルクソンが「純粋持続」と呼ぶのは、日常的な意識ではとらえがたい、連続的かつ質的な内的時間の流れである、質的で連続的な内的時間の経験である[4]。彼によれば、古代から近代に至る哲学や科学の多くは、このような時間のあり方に本格的に向き合ってこなかった[28]。
ベルクソンは、純粋持続とは人が自我のままに生き、現在と過去を区別せずに体験するときに、意識がとる時間形式であると述べている[29]。 この点を説明するために、ベルクソンは音楽の例を挙げている。楽曲を聴いている際、旋律が一部乱れると、それが過ぎ去った音であっても、全体の音楽体験に影響を与える。乱れた旋律が過去に属するものであっても、それが現在の旋律と結びついて、楽曲全体の印象を損なう。これは、我々の意識が音を一つずつではなく、連続した全体として把握していることを示す[29]。 すなわち、意識の中では過去の旋律が「記憶」として保持され、現在進行中の旋律とともに同時に存在している。こうした流れこそが「意識の継起[30]」であり、ベルクソンの言う「持続」の核心である[29]。
このような持続を捉えるには、空間的・分析的な思考様式では不十分であり、ベルクソンはそのために「直観」という独自の認識方法を導入することになった[31]。
直観と分析の方法論
ベルクソンは直観を哲学の方法に採用した。ベルクソンの直観は常識や科学で使われる知性とは異なる精神の能力である[32]。
ベルクソンは『形而上学入門 ( 1900年3月発表)[33] ) 』の中で、哲学者たちが「同意する」事柄から議論を開始している。この際に、彼は「哲学的討議性 ( 仏: discursivité ) の諸条件を革新すること」を課題とし議論を展開する[34]。 「哲学者たちは、その見かけ上の相違にもかかわらず、ある事物を認識する二つの深く異なる方法を区別することに同意する。」と主張する[34]。 一つは「その事物の周りを回る。」という方法であり「視点」と「記号」に依存し、「相対的」なものに留まる。もう一つは「事物の内に入っていく。」という仕方であり、記号に依存せず、「絶対的」なものに到達しうる。前者は「分析」と呼ばれて「科学」に該当し、後者は「直観」と呼ばれて「形而上学」に該当する[35]。ベルクソンは、この区別を通じて従来の哲学的討議の条件を革新することを目指していた。つまり、外側からの概念的分析ではなく、内側からの直観的把握によってこそ真の認識に到達できると主張したのである[36]。
ベルクソンは一つ目の定義として「形而上学は諸記号なしで済ませようとする学である」事をあげている[37][38]。
ベルクソンは、哲学者たちが共通に認めている認識方法の「二分法[39]」から出発する。ここでのベルクソンの議論は哲学的討議性の「諸条件を革新すること」から始まる[37]。 しかし、これはベルクソンの独自の考えではない。この記述はカント哲学を踏まえての考えである[40]。ベルクソンは、「直観」によって「対象それ自身」に到達できると主張した。これは、カントが認識不可能とした「物自体」の認識を可能にするものであり、外的で相対的な「分析」がカントの「現象」認識に留まるのとは対照的である[41]。 ベルクソンは直観は―もしそれが可能であれば―一つの単純な行為であると述べている[37]。 ここで彼が論じているのは、直観の実現可能性と原理的な水準での「認識する二つの深く異なる方法」の区別である。仮に、二つの深く異なる方法の一方の存在を否定する哲学者でも、この原理的区別は認めざるを得ないということである[37]。 ベルクソンは「特定の対象の運動」や「人物」といった対象についての「直観」がありうると見なしている。しかし、人間が物体の「内的状態」と「共感」したり、人間が他の人物と「一致」したりすることが現実にできるかどうかがただちに問題になっているわけではないとしている[36]。
ベルクソンによれば、我々の誰もが単なる分析によってではなく直観によって、内から把握できる実在は少なくとも一つは存在するのであり、それは「持続するわれわれの自我」であると考えている[10][42]。 これがベルクソンのカント違いで[43]、時間的に与えられる現象は「多」であって、自我の根源的統一をそのまま与えることはないと見なすカントに対し、ベルクソンが「純粋持続」と呼ぶ根源的時間は「一つの連続した流れ ( 仏: une continuité d'écoulement ) 」である[42][43]。
ベルクソンは、意識状態の継起である純粋持続においては、あらゆる状態が、特定の人格に属しているというだけの理由で、一つの人格性の総体を反映することが可能になり、結果として、その意識主体の過去と現在とが潜在的に含まれることになる[42]。 このため、そこからある「状態」を切り離すのは「抽象あるいは分析」の産物となる[44]。 また、記憶のない意識は存在せず、現在の感情に過去の諸瞬間の記憶が付け加わらないような、特殊な状態の継続ともありえないので、いかに単純な場合であっても、あらゆる瞬間に変化しない諸状態はないとしている[42]。
記憶とは過去の痕跡が脳に刻まれたものではなく過去そのものであり過去は自動的に保存される。つまり、現在が過去を含み込むために、各瞬間に永続的に変化を続け二度と同じ状態を繰り返すことはない。このような状態が時間の連続性であり統一性である[42][44]。
直観と本能と知性の関係について整理してみる。知性は行動の能力であり、行動するために知覚し、記憶分析し判断する能力である。知性によって運動を停止に、変化を一連の静止した状態に、時間を空間に置き換え、細かな差異をカテゴリー化された同一性に置き換えることが出来る。この知性の働きは程度の違いはあるが動物一般にも当てはまる[45]。
本能は、ベルクソンが好んで使った表現である「本能は見つけるが探さない。知性は探すが見つけない。[注釈 2] 」が当てはまる。動物の本能が見つけるものは、自然と自己の間において生きるための、回路のような関係構造である[46]。本能は自己の身体が、常に自然に適合し自然の一部として生きることを求め、そのように生きるように変化していく[45]。
知性は、本能とは違い自然の一部から外れて、自然を観察し、計画し、自分に適合した道具を作成したりする。さらに、道具を作る道具をも作成するなどして限りなく進んでいく。知性が進めば進むほど、本能から開放されて自由度を増すことになる。これが、探すが見つけないという知性の能力である[45]。
ベルクソンの時間とフッサールの時間

ベルクソンとフッサールはともに1859年に生まれている。世界の哲学に多大な影響を与えた二人であるが、彼らの間には直接の影響関係は無い[47]。
時間論について、ベルクソンは楽曲の例を用いて、我々が音を一つずつ認識するのではなく、旋律全体を一つのまとまりとして把握していると述べている[29]。 例えば、ベートーヴェンの『歓喜の歌』における「ミ・ミ・ファ・ソ・ソ・ファ・ミ・レ」のような旋律は、個々の音としてではなく、全体として一つの意味あるまとまりとして意識される。 人間の意識の中では、過ぎ去った旋律「ミ・ミ・ファ・ソ」が記憶として保持され、現在進行中の旋律「ソ・ファ・ミ・レ」とともに同時に存在している[29]。 これは旋律が純粋持続であり、そこには離散的な『瞬間』が存在しないことを意味する[48]。
これに対して、フッサールも時間論を音の知覚の分析に基づいて組み立てている[49]。フッサールにおいては、音楽の流れも一つの意識のうちに保持され、未来の旋律も予期される。この三重構造(印象・保持・予期)をもって、意識は時間を構成する[48]。 フッサールは現象学を通じて、意識の構造を記述する方法を採用し、時間の意識を「印象(いま現在の感覚)」「保持(直前の印象の余韻)」「予期(次に訪れるであろう印象の先取り)」という三つの契機からなる流れとして把握した。これは、意識が連続する諸経験をひとまとまりのものとして把握するための条件を明らかにしようと試みた[50]。
つまり、特定の音「p」「q」が相次いで結びつきをもって現れるとき、まず、音「p」と「q」は、現在の意識に直接的に現れ、「印象 (原印象[51]) 」として知覚される。すなわち、いま音として鳴っているpは意識の中で直接的に現前し、それに引き続いて現れるqもまた、現実的な印象として経験される。そして、pが過ぎ去ると、それはすぐさま「保持 (過去把持[52])」に沈下し、意識はそれを今聞こえているqとの関係において保持し続ける[53]。 さらに、もしpと等しいものとしてp’が直接に続いて現れる――つまり繰り返しが起きる――場合、保持の中にあるpが想起され、過去の記憶が現在の印象に重ね合わされる。ここには、保持が過去を想起させるという助成が働いており、その助成はさらにqにまで及んでいく。こうした時間意識の構造のなかで、次に続くであろうp’もまた、たった今現れたp’に引き続いて「予期 (未来予持[54])」されるのである[53]。
ベルクソン同様に『歓喜の歌』を例に考察すると、未来予持と過去把持は「ミ・ミ・ファ・ソ・ソ・ファ・ミ・レ」において「ファ」の音を今聴いているとき、「ファ」が原印象となっているとき、「ミ」の音は既に聞こえていない。しかし「ミ」は現在聴こえていなくとも、過ぎ去った音として現在に保持される。このような保持が過去保持である[55]。そして、次の音である「ソ」は、いまは聴こえていないが、まもなく到来する音として、現在に保持される。このような保持の仕方が未来予持である[55]。
フッサールの時間概念は、ベルクソンのような時間の相互浸透が無い、相互に外的な瞬間の連続であると捉えている。ベルクソンは相互浸透する持続であり、フッサールは点的な瞬間の連続ということができるとともに、フッサールのほうがより記述的な立場をとると言える[48]。
現象学の流れをくむ、サルトル、ハイデッカー、メルロ=ポンティは、ベルクソンの純粋持続を批判しているが、その批判はフッサールの時間概念を用いている[56]。
他の哲学者との関連
プロティノス

ベルクソンはギリシアおよびラテンの哲学に深い関心をもっており、新プラトン派の哲学者で、この学派の実質的な創始者であるプロティノス ( 古希: Πλωτῖνος 希: Plōtinos ) にベルクソンは強い類縁性を感じていた[57][58]。ベルクソンがリセで教員だった頃に、ギリシア哲学の概観やプロティノスについての講義録が存在し、内容からはプロティノスへの関心が明確に読み取れる[59][60]。
ベルクソンはプロティノスの中心命題である「魂 ( プシューケー 古希: ψυχή 希: psychē ) 」について研究をしている。研究の目的は、個人の魂についての理論と宇宙の魂の理論を並行して研究し、両者の関係を明らかにし要点を明確にすることであった[61]。 ベルクソンによるプロティノスの研究によると、プロティノス哲学の要点は、「人間と宇宙はどのようにして形成されるのか?」という問いであった[62]。ベルクソンはプラトンの哲学において魂に関することは神話として語られ[63]、プロティノスはプラトンの語った神話に哲学的な説明を与えている[62]。その説明は時間経過のうちに展開されている神話ではなく、非時間的――すなわち、時間の流れに依存しない普遍的・本質的――で形而上学的な説明であるとしている[62]。ベルクソンはプロティノスを研究することで「時間はそれ自身では非時間的な何かを継起的な形式のもとに展開させること」がベルクソンの思想とプロティノスの永遠と時間の哲学に共通するものであると見なし、自らの哲学的時間論における着想の糸口とした[60][62]。
デカルト

ベルクソンはデカルトについて、デカルトは精神の本質 ( 実体としての性質 ) を持続、つまり不断に更新される行為においたと主張している。また、デカルトの「我思う」で重要な点は、それをどこまでも繰り返すということにあると述べている[64]。ベルクソンの説に従うと「我思う」は不断の更新や繰り返しを前提とした「純粋持続」のことであると言える[64]。
デカルトは神による「連続創造」を説きながらも、物質界については「機械論的決定論」を支持するという二重の立場を取っていた[65]。この結果、精神(非延長的実体)と物体(延長的実体)という二元論的枠組みの中で、両者の関係を一貫して説明することができずにいた[66]。デカルトは心身問題について、「 スピノザ主義」のような並行論的体系化を行わず[67]、心身合一を「原始的概念」として扱い、「生と日常の会話の行使によって」理解されるべきものとして問題を回避した[68]。
これに対してベルクソンは、デカルトが精神をも空間的・幾何学的方法で把握しようとした点に[69]、哲学的限界を見出し、それが意識の本質である「持続」の流動性を見失わせたと批判している[70]。より根本的には、ベルクソンはデカルトが精神をも空間的・幾何学的方法で把握しようとしたことを批判し[67]、意識の本質である「持続」の流動性を見失ったと指摘している[70]。ベルクソンにとって心身問題の真の解決は、デカルトのように両者を空間的関係として捉えるのではなく、意識の時間的持続性と身体の空間性を適切に区別し、時間的次元における両者の真の関係を把握することにあった[70]。
カント


ベルクソンは、政治的視点においてジャン=ジャック・ルソーやイマヌエル・カントから影響を受けている[40]。しかし、認識論の領域においては、カントの立場に対し明確な批判を加えている[40][60]。
ベルクソンの哲学は、形而上学における混同――たとえば「質と量」「継起と同時」「持続と延長」「自由と必然」「知識と記憶」「生命と秩序」といった対概念の混用――によって生じる問題の解消を目指している。その基本的な方法論は、これらの混同を明らかにし、「範疇の矯正」や「秩序の回復」を通じて思考を明晰にすることにある[41][71]。
ベルクソンが初期に注目したのは、「アキレスと亀」や「自由意志の問題」である[72]。彼は、これらの難問を通じて、知性による誤った範疇の使用が生む混乱を解明しようとした。つまり、彼の哲学は、誤謬を正すための一種の「反形而上学」から出発している[71]。 ただし、この分析を担う知性自体が、空間的な原理に基づいて構成されているため、その適用には限界がある[41]。ベルクソンによれば、空間的知性は延長や同時性、量といった対象には適しているが、継起や純粋持続、質といった時間的存在に直接的に迫ることはできない[71]。こうした対象を捉えるには、否定的・間接的な手法――すなわち空間的範疇を差し引いた形でのみ捉える方法――を用いなければならない[41]。
このようなプロセスを踏む場合にベルクソンは、行動によって全てを空間化し無時間化してしまう知性――つまり、あらかじめ事象の全てが与えられている知性――に立脚する以上、事象の本質である「創造」を把握することはできないと論じている。カントの批判哲学は、非創造的な立場に立つ代表的な哲学ということになる[41]。カント哲学が、あらゆる現象が理性のアプリオリな普遍的、不変的構造によって解明可能となるとする立場に立つ以上、カントにとっては知り得るものの全ては同時に存在しうる全てのものとなる[43]。 このことは、ベルクソンの意図した「知性の働きの制限」に大いに寄与している[73]。つまり、『純粋理性批判』の目的が純粋理性の働きについて、その使用限界を明確にすることにあった[74]。このため、理性の限界を示す「制限概念」が、それ自身が「時間の外」にある「意思の自由」「霊魂の不死」「神の存在」といった「超越的概念」を生み出すことになった[73]。 ベルクソンとカントにおいて知性に制限を与えるのは、ベルクソンにとっては時間的存在であり、カントにおいては「無時間的存在」である[73]。
カントもベルクソンも、知性の適切な働きの基本条件として「直観」を前提にしている[75]。 しかし両者の直観は同一ではない。ベルクソンの言う直観とは、事実の次元における需要と合致としての直観と、知性に対する否定作用としての「反省作用としての直観」という二面性がある。カントにおいては理性が必要十分な働きをするには、どのような場合においても感性的直観の受容が前提となるとしている[76][77]。
したがって、両者にとって知性の限界を画定するためには直観が不可欠となるが、その直観の意味はまったく異なる。カントにとって直観は感性の受動的条件にすぎないが、ベルクソンにとっては、それは知性を超えるための積極的な跳躍なのである[60]。
関連する現代思想家たち
サルトル

ベルクソンは19世紀後半から20世紀前半に活躍した哲学者であり、当時のフランス哲学界に大きな影響力をもっていた[78]。
ベルクソンの影響力の高さから、サルトルもその思想に触発されていた。サルトル自身、哲学に進んだのはベルクソンの影響によると語っている[注釈 3][79]。 サルトルが青年期に自身の哲学的構想を練っていた1930年代初頭、ベルクソンは1930年にレジオン・ドヌール勲章を授与されており、既に有名人であった。サルトルが哲学者としてデビューするのは1930年代半ばである[注釈 4][79]。
サルトルは自身の著作『想像力 ( 仏: L'Imagination ) 』の中で、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、フッサール、ベルクソンに至るまでの哲学者を批判的に検討している[80]。 特にイマージュ ( 想像力 ) をめぐる学説史についての分析では、彼独自の「準観察」という概念を導入し、その特異な性格を明らかにしている[注釈 5][79]。 サルトルはイマージュは意識の対象に対する関わり方の一つであり、イマージュと物体を明確に区分している[81]。サルトルはベルクソンが意識を物体化しているとして批判している[79]。
サルトルは、ベルクソンのイマージュ理論の問題を検討するにあたって、まず「連合主義的心理学[82]」のイポリット・テーヌと、生理学的・機能主義的立場をとるテオデュール・アルマンド・リボーの心理学を批判している[83]。彼らは、イマージュを「現象そのものとして」「意識の構造の中で」いかに成立するかを問題にすべきであるにも関わらず、テーヌはイマージュを感覚の残滓として説明し、リボーは神経作用の一部として理解したが、いずれも「現象としてのイメージ体験そのもの」を正面から捉えたとは言えない[84]。
ベルクソンは、時間的なもの ( 純粋持続 ) と空間的なもの ( 物理的時間 ) をはっきり区別している。そしてそれぞれへのアプローチの仕方も、直観と分析という方法で区分している。しかし、サルトルは、イマージュを「物として存在するかのように」扱うベルクソンの立場は、意識の志向性や能動性を軽視していると批判した[85]。
サルトルのベルクソン批判は、一貫してフッサールの現象学における意識の志向性の理念に立脚している[86]。しかし、ベルクソンが語るイマージュは、実在論と観念論によって物質と現象を分けて考えるようになる以前から、我々に与えられている「野生の物質」と理解することもできる[86]。このイマージュの概念によって、ベルクソンは意識と物質、精神と身体の関係と、これら二つの関係に跨って存在している現実行動の中心である身体を巧みに利用できたと言うことができる[86]。
ドゥルーズ

ジル・ドゥルーズは著書『ベルクソニスム[87]』において、ベルクソンの時間論を存在論の観点から再解釈した。その読解の特徴は、「潜在性」や「多様体」などの独自の概念を導入し、後年の『差異と反復』においてさらに展開された点にある[88]。
ドゥルーズのベルクソン理解において問われるべき課題は、主に二つである。一つは、彼がどの程度ベルクソニアンであったか。もう一つは、彼がベルクソンからどのような点で距離を取っているか、という問題である。これらは別々の問いではなく、むしろ一体のものである。ドゥルーズはその哲学的出発点から方法、主題に至るまで、徹底してベルクソン哲学と対話しており、それゆえにその差異が際立つこととなる[89]。
たとえば、「差異」の概念は、ベルクソンにも見られるものの、ドゥルーズにおいては中心的主題として展開される。ドゥルーズは『差異と反復』において、潜在的なものの哲学(哲学的潜在性)を構想し、これをベルクソン哲学に基づいて展開した[90]。彼は、ベルクソンが提示した「持続(durée)」の概念を媒介に、全体性や同一性の思想に抗して「差異」の哲学を打ち立てている[91]。
また、ドゥルーズは「持続の一元論」をスピノザ的語彙を用いて再構成する。彼によれば、純粋持続は一つの多様体であり、その中に差異のすべての度合いが潜在的に共存している。この意味において、複数の時間ではなく、ただ一つの時間が存在するとしている[92]。
この純粋持続と物質の関係について、ドゥルーズは「収縮」と「弛緩」という差異の程度によって説明する。すなわち、持続は最も収縮した物質であり、物質は最も弛緩した持続であるという逆説的関係が成立する[93]。
さらにドゥルーズは、持続と物質のあいだにある本質的な差異を「自然」という観点から把握し、「能産的自然(natura naturans)」と「所産的自然(natura naturata)」という区別を導入する[94][95]。彼にとって、持続とは本性的差異を内包しつつ自らを分割(差異化、différenciation)していく能産的自然であり、それが顕在化したものとしての物質は、所産的自然として位置づけられる[93]。
このように、ドゥルーズはベルクソン哲学を基盤としつつ、その射程を拡張し、独自の時間論と存在論を構築している[96]。
小林秀雄

小林秀雄は文芸雑誌『新潮』にて『感想』というタイトルで、ベルクソン哲学をめぐる思索を1958年から1963年にかけ長期連載という形で56回にわたって連載するというかたちで試みたが、未完のまま打ち切られた。小林にとってベルクソンは若い頃から唯一愛読していた哲学者とされる[97]。 フランス文学者の平井啓之によると、小林の断念の理由はベルクソン哲学の特徴である「審美的思惟」を無視し、門外漢である「科学と哲学の関係の解明」をあえて行おうとしたことにあるとしている[97]。
小林は、西田幾多郎を引き合いに出して、純粋持続が繰り返すことができないことについて、繰り返しが不能であるということは、純粋持続の根底に時間を超越する或物が存在する必要性があると論じている。また、ベルクソンが時間の概念に囚われすぎていて変化を超越し統一へ向かうという方向性を見逃しているとも指摘している。また、「エラン・ビタール (仏: élan vital )[注釈 6]」の先端に至ったとき、そこには空間も時間もないと主張している[98]。
小林のベルクソンに対する根本の問いかけは、超越との関係を内に含む宗教的な問いかけであった。小林は西田の思想を借りて、経験の一貫性に支えられ、それを深めることを目指したベルクソン哲学の理解に努めた[99]。
出典
注釈
- ^ 『意識に直接与えられたものについての試論』の英語のタイトル『時間と自由 (英: Time and Free Will ) 』は、ベルクソンによって許可されたタイトルである。(石井 2013, p. 38)
- ^ 「 L’instinct trouve mais ne cherche pas ; l’intelligence cherche mais ne trouve pas. Henri Bergson, L'Évolution créatrice (1907), chapitre II
- ^ サルトル著 海老坂武訳 『サルトル―自身を語る』人文書院 1980年刊行。40頁
- ^ 『想像力』 1936年刊行。『自我の超越性』 1937年刊行。
- ^ イマージュ=想像力。サルトルによると「我々が或る物を想像するとき、我々は自分の心の中にあるその物の<像>を見るのではなく、現実の対象自体に思いを馳せるのだが、ただしその仕方が、知覚の場合とは異なり、<準観察>になるというのが彼の主張であった。つまり、知覚の場合には、我々は対象を横や裏から見るなど、視点を増やすこと ( =<観察> ) によってそれについての情報を増やすことができる。しかし、想像においては、対象は始めから当のものとして思い描かれるのであって、観察の結果からその物の<何>が気づかれるのではない。例えば、私の想像する友人は、私が自分の心のなかを観察するまでもなく、始めから当の友人として想像されているのであり、その意味では、想像は概念的<知>の性格を持っている。しかし、その友人の例えば横顔が思い浮かべられているという点では、想像は知覚における<射映>の現象に似ている。このように、対象に対して知的であると同時に知覚的な仕方で向かう仕方を、サルトルは<準観察>と名付けたのである(『創造的なもの』)。 ( 『想像力』滝浦静雄著 岩波哲学・思想事典 973頁50行目〜974頁11行目より引用。(滝浦 1998, pp. 973–974) )
- ^ エラン・ビタール ( 生の飛躍 ) はベルクソン哲学を特徴づける概念の一つ。生命は過去―現在―未来の時間的総合の弛緩と緊張によって、様々な水準に分割され、そのような緊張と緊張に由来する活力・想像力の理念的極限において、唯一の完璧な純粋想像力をさす。生命の進化や創造的な衝動を象徴する概念であり、物理的な空間や時間の枠を超える純粋な創造力として描かれている。(中田 1971, p. 141)
脚注
- ^ a b c d 青井和夫 他a 1971, p. 702.
- ^ a b c d 中田 1998, p. 763.
- ^ ベルクソン哲学研究会 2015, p. 279.
- ^ a b c 金森 2007, p. 34.
- ^ 金森 2007, pp. 23–24.
- ^ 中田 1971, p. 141.
- ^ a b c 越部 2010, p. 212.
- ^ 金森 2007, pp. 35–36.
- ^ 平井 2022, p. 17-21.
- ^ a b 棧 1982, p. 27.
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小林卓也 ( NRID 研究者番号 50611927 )
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関連項目
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