持続と自由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/29 16:26 UTC 版)
ベルクソンによれば、この純粋持続こそが自由の源泉である。通常、自由といえば、選択の自由を意味する。たとえば、ひとつの道を進んでいると、その先が二つに枝分かれしている。その分岐点において、どちらかの道を進むか自分の意志に基づいて選択できる。そこに自由があるとされる。しかし、ベルクソンにいわせれば、そのような分岐路を思い浮かべること自体が、空間化された時間による発想であり、生命の自由な持続に即したものではない。生命にとっての未来というのは、分岐路のようにあらかじめ存在するものではなく、「現在」において不断かつ連続的に創造されるものであるからだ。したがって、自由とはこの純粋持続への帰一であり、その発現としての純粋自我による行為である。 他方、物質界は一瞬前の過去を惰性的に反復するだけであり、すなわち持続の弛緩の極であるとされる。物質は「自らを破壊する」のに対して、生命は「自らを形成する」。つまり、生命には、「物質が降りていく坂を登ろうとする努力」をみることができる。宇宙の万象は、この持続の種々の緊張による多様な創造的進化の展開なのである。そして、緊張の極にあるのが、エラン・ビタール(生の躍動)である。
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