持種との対立とは? わかりやすく解説

持種との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 15:01 UTC 版)

甲斐常治」の記事における「持種との対立」の解説

斯波義淳の代から執事として仕えていたが、永享5年1433年)に義淳は死去。その異母弟で常治にとっては従兄弟にあたる義郷が家督継承した3年後永享8年1436年)に事故死遺児千代徳丸(義健)が幼少のため、分家斯波持種と共に千代徳丸後見人務めた大和永享の乱では室町幕府命令受けて持種と共に大和出陣関東永享の乱発生すると持種・朝倉教景と共に千代徳丸に代わって関東出兵した。 斯波氏では幼少当主続いたため、実権は「被官人評定」に移り、常治は評定において、斯波氏執事としての立場から事実上斯波氏取り仕切っていた。しかし、常治は傲慢な振る舞いをしていたらしく、管領当主でもある斯波義淳評して管領の器にあらず」などと公言していた。 そのため、斯波持種二宮氏・島田氏などの他の被官人は、当主ないがしろにする常治の専横業を煮やし京都にある常治の私邸放火したり、討伐計画企てたりするなど(討伐計画自体は義健の舅吉良義尚仲介により未遂となる)、常治と対立することとなる。 更に文安3年1446年9月、持種は加賀出兵守護職巡って対立している富樫氏当事者1人富樫泰高肩入れし、泰高の甥成春を追放したが、斯波方に多く死傷者出している(加賀両流文安騒動)。常治と持種派の家臣団はこの時の対応を巡って対立したともされる(持種派は出兵賛成、常治は反対)。

※この「持種との対立」の解説は、「甲斐常治」の解説の一部です。
「持種との対立」を含む「甲斐常治」の記事については、「甲斐常治」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「持種との対立」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「持種との対立」の関連用語

1
10% |||||

持種との対立のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



持種との対立のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの甲斐常治 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS