持統行幸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 21:40 UTC 版)
『続日本紀』や『類聚国史』には、702年に持統天皇(この時には退位して上皇となっていた)が 三河国を行幸したとの記述がある。 『万葉集』には、この行幸について詠んだ歌として、長忌寸奥磨(ながのいみきおきまろ)の歌「引馬野に にほふ榛原(はりはら) 入り乱り 衣にほはせ 旅のしるしに」や、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の歌「何処にか 船泊(ふねは)てすらむ 安礼の崎 漕ぎ廻(た)み行きし 棚無し小舟」がみえる。これらによると、持統天皇は船に乗って引馬野(ひくまの)、安礼の崎(あれのざき)に上陸したと読み取れる。 『十六夜日記』中にある「引馬の宿」について、賀茂真淵が浜松北方とする見解を示して以降、引馬野を遠江とする説が拡大した。対して、仙覚や荷田春満、斎藤茂吉らは三河説を唱えたが、現在では後者が有力視されており、音羽川の河口に近い御津町御馬の辺りであるとみられている。また、昭和末期に造成された埋立地三河臨海緑地の一部には、「安礼の崎」の地名が付けられた。
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