ぶんり‐は【分離派】
読み方:ぶんりは
分離派
【英】:SECESSION
【別称】:ゼツェッション ヅェツェッシォーン
ラテン語の動詞SECEDO(分離する)を語源としたヅェツェッシォーン。「分離派」と訳されている。19世紀末以降、ドイツ・オーストリアの各地では、既存の保守的・閉鎖的な芸術家協会等の機構のなかでは自由に発表活動ができない、発表の場が与えられていないと考えた、進歩的な芸術家たちが、官営事業化している展覧会とは別に、彼ら自身の協会や展覧会組織を持とうとし、相次いで新しく芸術家集団を結成した。「ヅェツェッシォーン(分離派)」とは、こうして結成されたグループにつけられた名称である。最初の創設は、1892年にシュトゥック、トリュブナーらを指導者としたミュンヘン分離派である。1897年には、クリムトを会長とするウィーン分離派が、1899年に、リーバーマンの指導のもとにベルリン分離派が成立した。ベルリン分離派は、「ブリュッケ」のメンバーを含む表現主義作家の出品拒否が原因で、1910年に再び分裂、新分離派が結成され、その最盛期をむかえた。分離派には特定の様式・理念はないが、建築・デザイン史からは、近代運動のひとつとみなされることもある。
分離派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/03/15 21:29 UTC 版)
分離派(ぶんりは)
- イングランド国教会の分離派 - イングランド国教会から分かれたプロテスタントの諸教派。
- 正教の古儀式派(分離派) - 分離派(ラスコーリニキ)とは、ロシア正教会の古い奉神礼を正統なものとみなし守る人々(古儀式派)を主に指す。「分離派」は蔑称であるとされ、古儀式派自身は使用せず、主流派正教会の側も、近年では「分離派」の呼称を避けている[1](但し主流派側から使われなくなったわけではない[2])。霊的キリスト教、カタコンベ系諸正教会の諸教派及びその他の諸教派等の、主流派のロシア正教会を離れて形成された教派一般に対しても使用されることがある[3]ため、正確に言えば「分離派」は「古儀式派」よりも広い概念である[4]。
- ゼツェシオン(分離派) - 19世紀末から20世紀始めにかけてのドイツ語圏の芸術運動のグループ。ゼツェッシオン、セセッション、ゼツェッションとも。
- 分離派建築会 - 日本で大正時代に新しい建築を目指して活動を行った青年建築家のグループ。山田守、堀口捨己らが参加。
- 写真分離派 - ニューヨークで活動したピクトリアリスムの写真家のグループ。フォト・セセッション参照。
脚注
- ^ http://www.orthodoxjapan.jp/history.html
- ^ http://www.anti-raskol.ru/
- ^ http://www.anti-raskol.ru/
- ^ 安村仁志 「古儀式派と諸宗教セクトとの関係」『ロシア語ロシア文学研究 』(20), 103-104, 日本ロシア文学会 1988年(http://ci.nii.ac.jp/naid/110001249196)
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分離派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/07 05:46 UTC 版)
1947年、フライタークが死去したとき、彼の追随者のひとりでありローマ・カトリック系の学校教師でもあったバーナード・セイアス(Bernard Sayerce ,1912 - 1963)は、自分こそがフライタークの後継者であると主張した。当時900ほどあった、ほとんどすべてのフランスとベルギーの集会はこの新しいグループに加わり、1958年から1962年までの間に9700人もの信者で満たされた。1963年に「親愛なるママ」と呼ばれたリディ・サルトル(Lydie Sartre ,1898 - 1972) 、その後1971年にはジョセフ・ネラン(Joseph Neyrand ,1927 - 1981)が、セイアスに代わってこの組織の指導者となった。1984年には、この派は"Amis sans frontières"(フランス語で「国境の無い友」)と名づけられた。
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