タタ・スチール・チェストーナメントとは? わかりやすく解説

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タタ・スチール・チェストーナメント

(Tata Steel Chess Tournament から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 01:23 UTC 版)

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2018年・第80回タタ・スチールトーナメントの対局会場

タタ・スチール・チェストーナメント英語: Tata Steel Chess Tournament)は、オランダのワイク・アーン・ゼー英語版で毎年1月に開催されるチェスの大会である。1938年の創設時はスポンサー名からホーホフェンス(Hoogovens)大会と呼ばれ、1999年にスポンサーのKoninklijke Hoogovens社がブリティッシュ・スチールと合併してコーラス・グループとなってからはコーラス・チェス・トーナメントと呼ばれていた[1] [2]。現在のスポンサーはタタ・スチール


トーナメントの歴史

Hoogovens Beverwijk

初期のトーナメントは非常に小規模で、1938年には4人のグループから始まり、参加者はオランダ人プレイヤーに限定されていた。最初の5つのトーナメントは、毎年1月初旬に開催された。1943年と1944年には、トーナメントの参加者は2倍の8人になった。1945年は第二次世界大戦のため、トーナメントは開催されなかった。1946年、最初の国際大会が開催された。メインのトーナメントは10名に拡大され、アルベリク・オケリー・デ・ゴールウェイ英語版ベルギー)とゴスタ・ストルツ英語版スウェーデン)が招待され、オランダからも8名が参加した。

トーナメントの規模が大きくなるにつれ、補助的だった女子のトーナメントが定期的に開催されるようになり、「マスターズ」イベントや「マスターズ予備軍」イベントも開催されるようになった。またサッカーのリーグ戦に似た方式として、ある年の成績優秀者を翌年の上のクラスのイベントに招待する伝統も生まれた。

ヤン・ハイン・ドナー対ブルーノ・パルマ(1963年)

トップグループの優勝者:

  • 1938年 - Philip Bakker
  • 1939年 - ニコラス・コートルバー英語版
  • 1940年 - マックス・エーワ
  • 1941年 - Arthur Wijnans
  • 1942年 - マックス・エーワ
  • 1943年 - アルノルト・ファン・デン・フック英語版
  • 1944年 - Theo van Scheltinga
  • 1945年 - トーナメントなし
  • 1946年 - アルベリク・オケリー・デ・ゴールウェイ
  • 1947年 - Theo van Scheltinga
  • 1948年 - Lodewijk Prins
  • 1949年 - サヴィエリ・タルタコワ英語版
  • 1950年 - ヤン・ヘイン・ドナー英語版
  • 1951年 - エルマン・ピルニク英語版
  • 1952年 - マックス・エーワ
  • 1953年 - ニコラス・ロッソリモ英語版
  • 1954年 - ハンス・ボウメスター英語版 ヴァーシャ・ピルツ英語版
  • 1955年 - ボリスラフ・ミリッチ英語版
  • 1956年 - ギデオン・ストールベリ英語版
  • 1957年 - アレクサンダル・マタノビッチ英語版
  • 1958年 - マックス・エーワ ヤン・ヘイン・ドナー
  • 1959年 - フリズリック・オラフソン英語版
  • 1960年 - ベント・ラーセン チグラン・ペトロシアン
  • 1961年 - ベント・ラーセン ボリスラフ・イフコフ
  • 1962年 - ペーター・トリフノビッチ英語版
  • 1963年 - ヤン・ヘイン・ドナー
  • 1964年 - パウリ・ケレス イイヴォ・ネイ英語版
  • 1965年 - ラヨシュ・ポルティッシュ英語版 エフィム・ゲラー英語版
  • 1966年 - レフ・ポルガエフスキー英語版
  • 1967年 - ボリス・スパスキー

Hoogovens Wijk aan Zee

ミハイル・タリ(1973年)
ナイジェル・ショート英語版(1986年)

1968年、大会の開催地がオランダのワイク・アーン・ゼーに移された。この頃、このトーナメントは一般にスポンサー名の「Hoogovens」と地名の「ワイク・アーン・ゼー」の両方で呼ばれていた。 1968年以降のGrandmasterAグループの優勝者は以下の通り。

  • 1968年 - ヴィクトール・コルチノイ
  • 1969年 - ミハイル・ボトヴィニク エフィム・ゲラー
  • 1970年 - マルク・タイマノフ
  • 1971年 - ヴィクトール・コルチノイ
  • 1972年 - ラヨシュ・ポルティッシュ
  • 1973年 - ミハイル・タリ
  • 1974年 - ウォルター・ブラウン英語版
  • 1975年 - ラヨシュ・ポルティッシュ
  • 1976年 - リュボミィル・リュボエビッチ フリズリック・オラフソン
  • 1977年 - ゲナディ・ソソンコ英語版 エフィム・ゲラー
  • 1978年 - ラヨシュ・ポルティッシュ
  • 1979年 - レフ・ポルガエフスキー
  • 1980年 - ウォルター・ブラウン ヤッサー・セイラワン英語版
  • 1981年 - ゲナディ・ソソンコ ヤン・ティマン英語版
  • 1982年 - ジョン・ナン英語版 ユーリ・バラショフ英語版
  • 1983年 - ウルフ・アナション英語版
  • 1984年 - アレクサンダー・ベリャフスキー英語版 ヴィクトール・コルチノイ
  • 1985年 – ヤン・ティマン
  • 1986年 - ナイジェル・ショート
  • 1987年 - ナイジェル・ショートヴィクトール・コルチノイ
  • 1988年 - アナトリー・カルポフ
  • 1989年 - ヴィスワナータン・アーナンド プレドラグ・ニコリッチ英語版 ゾルタン・リブリ英語版 ジュラ・サックス
  • 1990年 - ジョン・ナン
  • 1991年 - ジョン・ナン
  • 1992年 - ヴァレリー・サロフ英語版 ボリス・ゲルファンド英語版
  • 1993年 - アナトリー・カルポフ
  • 1994年 - プレドラグ・ニコリッチ
  • 1995年 - アレクセイ・ドレエフ英語版
  • 1996年 - ヴァシリー・イヴァンチュク英語版
  • 1997年 - ヴァレリー・サロフ
  • 1998年 - ウラジーミル・クラムニク ヴィスワナータン・アナンド
  • 1999年 - ガルリ・カスパロフ

コーラス・トーナメント

2000年以降、トーナメントの通称は「ワイク・アーン・ゼー」と「コーラス」の両方で呼ばれていた。

タタ・スチール・トーナメント

2011年、トーナメントの通称は「コーラス」から「タタ・スチール」に変更された。

  • 2011年 - ヒカル・ナカムラ
  • 2012年 - レヴォン・アロニアン
  • 2013年 - マグヌス・カールセン
  • 2014年 - レヴォン・アロニアン
  • 2015年 - マグヌス・カールセン
  • 2016年 - マグヌス・カールセン
  • 2017年 - ウェズリー・ソー英語版
  • 2018年 - マグヌス・カールセン
  • 2019年 - マグヌス・カールセン
  • 2020年 - ファビアーノ・カルアナ英語版
  • 2021年 - ヨルデン・ファン・フォレースト英語版

脚注

  1. ^
  2. ^

外部リンク




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