Multanとは? わかりやすく解説

ムルタン【Multan】

読み方:むるたん

パキスタン中部パンジャブ州都市インダス川支流チャナーブ川とサトラジ川の間に位置する古代より西アジア北インドを結ぶ交通要地8世紀ウマイヤ朝侵入後、イスラム教広まりイスラム聖者霊廟シャールクネアーラム、モスクなどが多い。ムルターン


ムルターン

(Multan から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/27 04:04 UTC 版)

ムルターン
ملتان
Multan
位置
ムルターン
ムルターン (パキスタン)
ムルターン
ムルターン (西南アジア)
座標 : 北緯30度11分24秒 東経71度28分16秒 / 北緯30.19000度 東経71.47111度 / 30.19000; 71.47111
行政
パキスタン
  パンジャーブ州
 県 ムルターン県
 市 ムルターン
City Nazim Mian Faisal Mukhtar
地理
面積  
  市域 3,721 km2 (1,437 mi2)
標高 710 m (2,329 ft)
人口
人口 (2015年現在)
  市域 3,117,000人
  市街地 2,050,000人
その他
等時帯 パキスタン標準時 (UTC+5)
市外局番 061

ムルターンMultanウルドゥー語: ملتان‎)は、パキスタンパンジャーブ州 ムルターン県の県都である。ムルタンと表記されることもある。人口380万人(1998年の国勢調査)でパキスタン第6の都市にあたる。インダス川支流のチェナーブ川の東に位置し、カラーチーから陸路で966 km,地理的にはだいたいパキスタンの中心部にあり,道路,鉄道,空路などの集まる交通の要衝である。

ムルターンは「ピール(スーフィーの聖者)と聖堂の街」として有名で,街にはバザール,モスク,聖堂や壮麗な墓廟がひしめいている。

歴史

古代

ムルターンは、南アジアの中でも最古の都市のひとつである。サンスクリットで、Mūlasthānという言葉が現在の都市の名前の由来である。これまでの考古学調査からムルターンは、モヘンジョ・ダロあるいはハラッパーなどと同時期に興った都市の1つであると考えられている。古代インドの叙事詩マハーバーラタ』では、Malāvaで登場した。

ムルターンを最初に征服した外国の勢力はアレクサンドロス3世であるといわれている。その後、ムルターンは、グプタ朝の領土の一部になった。

イスラーム襲来

712年、シンド人に引きつられる形でイスラーム勢力がムルターンに侵攻した。イスラーム勢力を率いたのは、ムハンマド・ビン・カースィム英語版en:Muhammad bin Qasim)であった。カースィムの侵攻により、ムルターンにもイスラームがもたらされることとなったが、ムルターンはそれでもなお、一独立勢力として維持してきた。しかし、1005年ガズナ朝マフムードMahmud of Ghazni)であった。マフムードは、ムルターンにあった太陽寺院や偶像の破壊を実施した。

マフムード1世。ムルターンを征服した。
1150年代に遡るシャー・ガルデズ墓廟

モンゴル襲来

ムルターンの中世は、スーフィズムの中心であったことが分かっている。その証は、現在のムルターンには数多くの聖者廟(ダルガー)が残されていることから明らかである。例えば、モンゴルの征服時代に、殺戮を止めるように説き伏せた聖者バハー・ウル・ハックのダルガー、「世界の柱」を意味するシャー・ルクネ・アーラム(建設は14世紀トゥグルク朝時代、もともとはトゥグルク朝の皇帝ギヤースッディーン・トゥグルクが自らの廟のために建設した)、1380年ごろに建設されたシャー・シャムス・タブレーズのダルガーなどである。

グジャラート・スルターン朝

グジャラート・スルターン朝のスルターン、マフムード・シャー1世(マフムード・ベガダ)の治世に、ムルターンからロマニ系のムルターニー英語版グジャラートパンジャーブへ移住した。

ムガル帝国

時代を経て、ムガル帝国の時代は200年間続いた。1735年には、当時、ムルターンを支配していたナワーブ・アブドゥル・サマド・ハーンの命令により、イドガー・モスクが建設された。

1735年創建のモスク

1757年には、アリー・ムハンマド・ハーンによって、アリー・ムハンマド・モスクが建設された。現在、ムルターンに残る建物の多くがこの時代に建設されたものである。当時のムルターンは農業生産が向上しており、このような建設事業が可能となった。

その後、しばらくの間、ムルターンは、アフシャール朝ナーディル・シャーの支配を受けたが、幸いにも破壊をまぬかれることができた。

ムルターンは、ムガル帝国の衰退を目撃することで、難しい時代を経験してきた。アフマド・シャー・ドゥッラーニーが創設したアフガン人王朝のドゥッラーニー朝が衰退すると、ムルターンはパシュトゥーン人の支配を受けた。

シク王国

シク教徒は、パシュトゥーン人が支配するムルターン地方を攻撃し、パシュトゥーン人はムルターンの周辺に住むことを余儀なくされ、ムルターンはシク教徒が治めることとなった。しかし、シク教徒の支配は長く続くことはなかった。徐々にパンジャーブ地方にはイギリスが勢力を拡大していったのである。イギリスとシク教徒の間で戦闘が行われた(シク戦争)。

イギリス領インド帝国

最終的にはイギリスが支配することとなった(British India)。

パキスタン

1947年にパキスタンが独立すると、ムルターンはパンジャーブ州に所属することとなったが、植民地時代にはわずかに鉄道が建設されただけであり、独立当時のムルターンは、産業、病院大学といった社会的なインフラストラクチャーの全てが欠如していた。これらのインフラストラクチャーは、独立後、徐々に整備され、経済的に発展を遂げるようになった。

住民

言語

サライキ語母語者が最も多いが、パンジャーブ語母語者も多く、また国語ウルドゥー語も広く使用される。

1998年(国勢調査)[1]
言語 割合 話者数
1 サライキ語 42.2% 632,602人
2 パンジャーブ語 32.3% 485,232人
3 ウルドゥー語 23.5% 353,354人
4 その他 2.0% 29,429人
合計 1,500,617人

交通

施設・歴史的建造物

姉妹都市

脚注

  1. ^ 1998 tehsils data at the Demobase”. 2017年9月18日閲覧。

関連項目

座標: 北緯30度11分24秒 東経71度28分16秒 / 北緯30.19000度 東経71.47111度 / 30.19000; 71.47111



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