IBM復帰後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 01:22 UTC 版)
「トーマス・J・ワトソン・ジュニア」の記事における「IBM復帰後」の解説
戦争が終わり、コンピュータに関する新聞記事や学術会議が賑わうようになる。とは言えペンシルベニア大学のENIACを見学した時に、巨大かつ高価で、しかも信頼性の低いこの装置が、いずれオフィス機器になるとは思えなかったと述懐している。IBMもいくつかの原始的な電子計算機を発表したが、それらはパンチ・カード機に取って代わるものではなく、同社の技術力を世間にアピールするデモンストレーション機としての意味合いが強かった。しかしその後、ENIACの開発者であるジョン・プレスパー・エッカートとジョン・モークリーが自分達の会社を設立し、商用コンピュータUNIVACの開発を本格的に開始した頃から状況が一変、パンチマシーンの返品で在庫が山積、IBMの経営陣は危機感を募らせる。例えば、1980年代の乗っ取り屋であるソール・スタインバーグは、ペンシルベニア大学の卒業論文に「IBMの衰退」についてテーマにするように指導された(自ら調査した結果、スタインバーグは逆に1950年代にIBMはコンピュータ業界において覇権を握るだろうと予測し、卒業後は企業向けのIBM社コンピュータのレンタル会社を興して一財産を築くことになる) IBMは朝鮮戦争を契機に、軍に納入するためのコンピュータ開発に巨費を投じる。中でも自身が設立したIBMフェデラル・システムが受注した半自動式防空管制組織(SAGE)はIBMのコンピュータ業界支配の要因になったとされ、史上最大のコンピュータと呼ばれている。1952年の社長就任、1956年のCEO就任及び同年の父ワトソン・シニアの死去に伴い、全面的に経営の指揮を執り始める。1960年代には社運を賭けた汎用コンピュータ、System/360の開発に着手し、成功させる。1970年の心臓発作を契機に体力的な限界を感じ、1971年に引退。
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