B級アクションとソフト・ポルノでの出発
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「ピート・ウォーカー (映画監督)」の記事における「B級アクションとソフト・ポルノでの出発」の解説
1939年イギリス・サセックス州ブライトンに生まれる。父親のシド・ウォーカーは寄席のコメディアンで、母親はコーラス・ガールだった。1960年代初頭から地元のブライトン・フィルム・スタジオで働くようになり、TVコマーシャルの撮影や映画の端役などの仕事をこなす。この時期には『栄光への脱出』(1960年)やマイケル・ウィナー監督の "Out of the Shadow"(1961年)などの映画に端役で出演している。映画の撮影に関わるうちにやがて映画監督を志すようになるが、映画界での実績がないことからなかなかチャンスがつかめず、自ら資金を集めて1967年に独立プロダクションを設立する。 短編ソフト・ポルノ映画映画 "For Men Only"(1968年)で監督デビューした後、エロティックな描写を含む低予算B級アクション映画『ザ・アンタッチャブル/暗黒街のハスラー』(1968年)で長編デビュー。続いて長編ソフト・ポルノ『結婚詐欺防止法教えます/中年ハイスクールPart1』(1969年)と、B級アクション『バイオレンスマン』(1970年)を発表する。この時期のピート・ウォーカーは脚本を24時間で書き上げ、一週間で撮影を行うというハード・スケジュールであった。 『バイオレンスマン』はB級アクションとしてそこそこの好評を得たが、ウォーカー自身は本作の出来の悪さを自覚していた。1970年に知人の映画プロデューサー、マイケル・クリンガーに『バイオレンスマン』の試写を見せた際に出来の悪さを面と向かって酷評されたが、反論せずにそれを受け入れたという。クリンガーは本作を酷評しながらも、その時に企画していたギャング映画を作るための参考資料としてウォーカーの長編処女作であるアクション映画『ザ・アンタッチャブル/暗黒街のハスラー』のフィルムを借りて行った。ちなみにその翌年に公開されたクリンガー製作のギャング映画は、名作として知られる『狙撃者』(1971年)であった。
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