アルキダモス2世
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 06:18 UTC 版)
アルキダモス2世(希:ἈρχίδαμοςΒ'、ラテン語転記:Archidamos II、?-紀元前427年、在位:紀元前476年-紀元前427年)はエウリュポン朝のスパルタ王である。
アルキダモス2世はゼウクシデモスの子であり、先王レオテュキデスの孫である。子供としては最初の妻(おそらくランピト)との間に次代の王アギス2世、二人目の妻エウポリアとの間にアギスの次の王アゲシラオス2世とキュニスカがいる。
ゼウクシデモスは父より先に死んだため、レオテュキデスの次の王位にはその孫のアルキダモスが就いた。また、レオテュキデスは後妻としてメニオスの姉妹でディアクトリデスの娘のエウリュダメを娶り、ランピトという娘を得、彼女をアルキダモスと結婚させた[1]。紀元前476年、賄賂によって王位を追われたレオテュキデスに代わってアルキダモスは王位に上った。
アルキダモスはペロポネソス戦争に先立つ交渉にて戦争の回避、少なくとも延期に全力を尽くしたが、主戦派に圧倒され、戦争の運びとなった。開戦後、彼は戦争の初期を指導し、紀元前431年の夏、紀元前430年、紀元前428年の三度にわたりペロポネソス連合軍を率いてにアッティカに侵攻して荒らした。彼の一度目の遠征では、アテナイのペリクレスが篭城作戦を取ったのに対し、アルキダモスは敵をおびき出して野戦を挑もうと挑発を兼ねて人口の多かったアカルナイ区を荒らしたが、結局応じてこなかったので糧秣が尽きると帰った[2]。二、三度目の遠征でも同様に糧秣が尽き次第帰国した[3]。紀元前429年にはプラタイアに同盟国軍を含めた軍を率いて向かったアルキダモスは戦争での中立を要求したが、拒否された。そこで彼は早期決着を目論んでプラタイアを攻撃したが、早期決着がつかないと判断すると持久戦に切り替え、包囲戦を行った。彼は盛り土作戦、火攻めなどあらゆる手を使ってプラタイアを攻めたが、ことごとく失敗したため、一部を残して帰国した[4]。その後、紀元前427年ないし紀元前426年の夏の前に彼は死に、次の王位には彼の子のアギス2世が就き、戦争の指揮を引き継いだ。
参考文献
脚注・出典
関連項目
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「Archidamus II」の例文・使い方・用例・文例
- フェーズIとフェーズIIで許容副作用を伴い効果的であることが示される治療あるいは薬品の大規模な臨床試験
- 1228年から1229年までの十字軍は、病気になった神聖ローマ帝国皇帝フレディリックIIで導いて、法王によって破門されました
- 330,000人の連合軍隊が敵火の下で絶望的な退却において、北フランスの浜辺から避難しなければならなかった世界大戦IIの陸海空共同の避難(1940年)
- 腎臓にアンジオテンシンIIができるのを阻止し、動脈を弛緩してくれる抗高血圧薬
- アンジオテンシンIIへのさきがけであるアンジオテンシンの生理学的に不活発な形態
- 高血圧を治療するのに用いられるアンギオテンシンII抑制剤
- ASCII文字セットは最も一般的に用いられている文字セットである
- 王を補足したと考えられるI歴代志とII歴代志の旧約聖書の旧名
- ウルガタ聖書(IIエスドラス書を除いて)に含まれるが、ユダヤやプロテスタント版の聖書では省略される旧約聖書の14冊
- I歴代志、II歴代志、エズラ、およびネヘマイアからの編集から成る外典
- フレディリック神聖ローマ帝国皇帝IIを破門して、聖地に対して新しい十字軍を計画していた1245年の西方教会の協議会
- キャサリンIIの愛人であり、1762年に彼女が権力を握る支援を行ったロシアの役員で政治家
- 遺伝的に第VIII因子が欠乏するために生じる血友病
- アンギオテンシンIをアンギオテンシンIIに変えるタンパク質分解酵素
- 血液凝固において、トロンビンは第XIII因子をフィブリンが分解しにくい凝血塊の形成を引き起こす(フィブリナーゼ)活性型に触媒する
- パーシングIIというミサイル
- SALTII条約という2国間軍縮条約
- SALTII条約という2国間軍縮条約の内容
- 宇宙開発事業団と航空宇宙技術研究所は,2004年にH-IIAロケットでHOPE-Xを打ち上げる計画をしていた。
- 72歳の映画監督と彼の息子は,9月25日,新作映画「バトル・ロワイアルII」の製作を発表するため,記者会見を行った。
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