4人の「義親」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 16:15 UTC 版)
剛勇で知られた義親がそれまでさしたる武名もなかった正盛に簡単に誅されたことに疑問を持つ者は少なくなかった。正盛の武功は疑問とされ、義親生存の噂が流れた。 永久5年(1117年)、義親を名乗る法師が越後国に現れ、豪族平永基の屋敷に出入りした。国司が引き渡しを命じると、永基は法師の首を斬り梟首したが、誰の首かもわからず、永基は検非違使の尋問を受けている。 翌元永元年(1118年)常陸国に義親を名乗る者が現れた。下総守源仲政(源頼政の父)が捕縛しようとするが逃げられ、5年後の保安4年(1123年)になって下野国で捕えて京都へ送り、検非違使に引き渡した。これは白河法皇、鳥羽上皇が実見するまでの騒ぎになったが、結局、義親は既に討滅されているのだからと、この者は偽者とされ梟首された。 白河法皇が崩御した大治4年(1129年)9月、義親を名乗る者が関東から入洛したとの風聞があった。この者は鳥羽上皇の意向を受けて前関白藤原忠実の鴨院邸に匿われ、「鴨院義親」と呼ばれた。加賀介家定ら旧知の者たちが実見し、大方は別人と証言したが、本物と証言する者もいた。しかも、この「鴨院義親」とは別に義親の旧家人の応弁房が義親を熊野で目撃したという噂もあり、生存説は根強かった。 ところが、翌同5年(1130年)近江国大津に義親を名乗る別の者が現れて入京し、「大津義親」と呼ばれた。「義親」が二人同時に在京する奇怪な事態となった。同年10月、両者は党類を引き連れて源光信邸前で乱闘となり、「大津義親」が殺された。 11月、藤原忠実邸(鴨院)に居た「鴨院義親」を騎兵20、従者3-40人が襲撃。「鴨院義親」は党類10人とともに殺された。 鳥羽上皇は事件の下手人を捜すよう公卿会議に命じた。かつて義親を追討した正盛の子の忠盛も疑われたが、彼は潔白を主張し、自ら下手人を捕らえると言った。結局、検非違使の源光信が下手人ということにされ(動機は不明)、土佐国へ流され、弟の光保も連座して解官された。 この事件はかつて白河法皇が追討させた大罪人の義親を名乗る人物を、鳥羽上皇が藤原忠実に保護させ、更にこの罪人を殺した者を賞するどころか罰したなど、不審な点が多い。
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