3代目ロシア連邦首相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 15:21 UTC 版)
「エフゲニー・プリマコフ」の記事における「3代目ロシア連邦首相」の解説
1998年9月にロシア財政危機を受けてロシアのセルゲイ・キリエンコ首相が解任されると、プリマコフが後任に就任する。プリマコフは当時第1党のロシア連邦共産党所属でキリエンコ内閣の産業貿易大臣だったユーリ・マスリュコフを第1副首相に大抜擢して共産党を名実ともに与党にするなど老練な政治手腕を発揮した。金融危機後、プリマコフは早速国際通貨基金(IMF)に融資を要請し、ロシアを訪問したカムドシュ専務理事とモスクワで会談した際に「貴君の尺度でロシアを推し量ろうとしてもだめだ」と強談判し、全額融資にこぎつける。金融危機に伴うハイパーインフレによるルーブルの大幅な下落及び通貨切り下げによる信用低下からロシア国債の価値が激減するが、最悪の状況は回避し、1999年3月には原油価格の高騰でロシアで初めてのプラスの経済成長を達成した。 1999年3月24日、プリマコフは公式訪問で米国に向かう途中の飛行機の機内でNATOがコソボ空爆を開始したことを知り、その場で訪問の中止を決定し、パイロットに飛行機を旋回してロシアに戻ることを命じた。この決定は「プリマコフ・ループ」として知られるようになった。 経済再建に成功し、政敵でCIS(独立国家共同体)のボリス・ベレゾフスキー執行書記を失脚させた。しかし次第に政権内で重みを増し、国民からも支持の高いプリマコフに対してエリツィンも危機感を抱く。また、プリマコフも次期大統領に対する野心を剥き出しにし、両者の対立は激化した。エリツィンの病気入院中の機会を捉え、ロシア連邦大統領の国家院解散権及び閣僚の人事権凍結と、さらに憲法改正により大統領制から日本のように議院内閣制に移行し、大統領にはプリマコフが、首相には共産党委員長のゲンナジー・ジュガーノフが就く密約を共産党側と交わし、プリマコフは共産党員で検事総長のユーリ・スクラトフを動員してエリツィン周辺の「セミヤー」やオリガルヒの汚職問題を追及してエリツィン失脚を画策するも逆に察知され、プリマコフは1999年5月12日にロシア連邦首相を解任され、政権から放逐された。
※この「3代目ロシア連邦首相」の解説は、「エフゲニー・プリマコフ」の解説の一部です。
「3代目ロシア連邦首相」を含む「エフゲニー・プリマコフ」の記事については、「エフゲニー・プリマコフ」の概要を参照ください。
- 3代目ロシア連邦首相のページへのリンク