22歳:結婚、娘誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 13:43 UTC 版)
「アレクサンドル・アレクセイエフ」の記事における「22歳:結婚、娘誕生」の解説
1923年、22歳のアレクセイエフは、24歳のグリネフスカヤと結婚した。グリネフスカヤの父親は、ロシア、サンクトペテルブルクの高官であった。しかし、 貴族の血統を守るため、グリネフスカヤの母親と婚姻関係を結んでおらずグリネフスカヤは私生児であった。そのため2歳の時、養子縁組をさせられるためパリに送られた。グリネフスカヤの母親は娘を連れ去られ、母国ポーランドへのチケットを渡された。グリネフスカヤはパリでミュージカルサロンを経営していたグリネフスカヤの父親の妹カティアの養子となった。 成長したグリネフスカヤは叔母の元を去り、前衛的なピトエフ劇場の主演女優となった。ロシアの演出家コンスタンチン・スタニスラフスキーがパリに訪れた際グリネフスカヤの演技を見て母国ロシアに戻すことをオファーしたが、グリネフスカヤは断り、アレクセイエフの側に残った。 娘誕生 1923年、アレクセイエフとグリネフスカヤの娘、スヴェトラーナが誕生する。 娘スヴェトラーナ・ロックウェル アレクセイエフの娘スヴェトラーナは後に、パリで当時演劇を学びに来ていたアメリカ人のポール・ロックウェルと出会い結婚し、スヴェトラーナ・ロックウェルとなる。その後夫婦はアメリカマサチューセッツ州ボストンに移り住む。また、彼女はパステルとアクリル絵の具を使用するアーティストである。彼女は、家族の物語を正確に説明した回想録を書き残している。 孫アレクサンダー・ロックウェル スヴェトラーナ・ロックウェルの息子(映画監督アレクサンダー・ロックウェル)はケンブリッジで育つ。20代前半になるとニューヨークに移り住み、タクシー運転手と炭酸水の配達員、サックスフォン奏者として生計を立てた。そして16mmボレックスカメラを購入し自分の映画を作り始めた。 また彼は、本「Itineraire d’un Maitre」にて、祖父について彼の作品に与えた影響を認め、「私の人生に祖父以上の影響はなかった。祖父の存在によって、私は独りではないことを知っていた。」 と書いている。 娘誕生後 娘が誕生した頃、アレクセイエフは、彼は最初の珍しいイラスト本を描いたため、名を知られるようになった。しかし、硝酸を使って版画技法であるアクアチントをしているときに片方の肺を失い、療養所で2年間過ごすこととなった。その間、妻グリネフスカヤはアレイセフの道具を手に取り、版画の仕方を学び、代わりとなって家族の稼ぎ手となった。 ピンスクリーンの発明はクレア・パーカーとアレクセイエフの功績によるものだが、グリネフスカヤは、8歳の娘と一緒に、アレクセイエフのピンスクリーンの製作を最初に手伝っている。
※この「22歳:結婚、娘誕生」の解説は、「アレクサンドル・アレクセイエフ」の解説の一部です。
「22歳:結婚、娘誕生」を含む「アレクサンドル・アレクセイエフ」の記事については、「アレクサンドル・アレクセイエフ」の概要を参照ください。
- 22歳:結婚、娘誕生のページへのリンク