2011年の暫定首相
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「ベジ・カイドセブシ」の記事における「2011年の暫定首相」の解説
ジャスミン革命後の2011年2月27日、モハメッド・ガンヌーシ首相は、チュニスにおける衝突で抗議活動に参加していた5名が殺害されたことを受けて辞任した。フアド・メバザ大統領代行は同日、「公私とも非の打ち所がなく、強い愛国心と忠誠心、国に奉仕する自己犠牲で知られる人物」としてカイドセブシを新しい首相に指名した。しかし、大多数の若い世代の抗議参加者は街頭で不平不満を表明し続け、さらなる協議のなされないままにカイドセブシ首相が一方的に指名されたことを批判した。 10月の制憲議会選挙でイスラム系のナフダ党が勝利した場合に備えて、ファラト・ラジ元内相がクーデターを準備していたという告発が5月5日になされると、街頭では再び、数日間にわたって激しい反政府抗議活動や衝突が生じた。Facebookで配信されたインタビューのなかで、ラジ元内相はカイドセブシ首相を嘘つき呼ばわりし、カイドセブシ政権はかつてのベン・アリー系の人々によって牛耳られていると述べた。カイドセブシ首相はラジ元内相の告発を「危険で信用ならない嘘であり、国内に混沌を広げようとするもの」として強く否定し、ラジ元内相を人権および基本的自由に関する高等委員会理事の役職から解任した。ラジ元内相はすでに3月8日には内相を解任されていたが、この役職にはとどまっていた。しかし、ナフダ党のラシード・ガンヌーシ党首はこの疑惑をさらに追及し、「チュニジア人は暫定政府を信用していない」と述べた。 10月の選挙を経た後の2011年12月24日、カイドセブシ首相は新たな暫定大統領であるモンセフ・マルズーキがナフダ党のハマディ・ジェバリを首相に指名したことで、首相職から退いた。ナフダ党は国会における最大派閥の地位を確かなものにした。
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