2011年の抗議デモへの対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 05:41 UTC 版)
「アリー・アブドゥッラー・サーレハの政策」の記事における「2011年の抗議デモへの対応」の解説
2011年にチュニジアで始まり、アラブ諸国に広がった「アラブの春」はイエメンにも2011年イエメン騒乱として波及した。同年1月にデモがサナアで始まると、サーレハ大統領は治安部隊によってデモを取り締まりつつ、次期大統領選への不出馬や世襲の否定を表明するなど、硬軟織り交ぜた対応で応じた。 しかし2月にエジプトでムバーラク政権が倒れたことを受けて抗議デモが拡大・本格化すると、サーレハ政権の武力による制圧行動も激化した。3月には治安部隊がデモ隊に発砲し、50人以上の死者が発生したことを受け、人権相と環境相がデモの鎮圧に抗議して辞任、サーレハ大統領の異母弟で第一機甲師団の司令官であるアリー・ムフシンが部隊ごと離反するなど、政権内にも綻びが見え始めた。 そのような状況下の5月下旬、サーレハ大統領は湾岸協力会議(GCC)の主導する仲介案に署名し、副大統領への権限移譲に同意する姿勢を見せた。しかし土壇場で署名を拒否し、反政府デモを一層拡大させる結果を招いた。6月には何者かによる大統領府爆破事件で重傷を負い、サウジアラビアで治療を受けるため出国した。 9月には治療を終えて帰国するが、反政府デモが続く状況に対して何ら新しい打開案を示すことはなかった。政権交代の道筋が見えないまま、デモの弾圧により死傷者が増え続けている状況に業を煮やした国連は、サーレハ政権に対して、デモの弾圧を人権侵害として強く非難し、GCCの仲介案への署名を促す決議を全会一致で採決した。その後も反政府デモは収まらず、政府側の治安部隊と離反勢力の衝突も続く中、11月にサーレハ大統領はサウジアラビアを訪れ、ようやく仲介案に署名した。
※この「2011年の抗議デモへの対応」の解説は、「アリー・アブドゥッラー・サーレハの政策」の解説の一部です。
「2011年の抗議デモへの対応」を含む「アリー・アブドゥッラー・サーレハの政策」の記事については、「アリー・アブドゥッラー・サーレハの政策」の概要を参照ください。
- 2011年の抗議デモへの対応のページへのリンク