2009年から解散まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 05:37 UTC 版)
「ペスカロロ・スポール」の記事における「2009年から解散まで」の解説
2009年、ペスカロロ・01で、ル・マン・シリーズにエントリーし、ペスカロロ・スポール16号車は、LMP1クラスのチーム・ランキングでローラ・アストンマーティン B09/60を使用したAMR イースタン・ヨーロッパの13ポイント差の2位につけた。ペスカロロ・スポール17号車は開幕2戦をペスカロロ・01を使用しただけで、その後はプジョーのレースカーに切り替えている。ペスカロロ・スポールは、ル・マン24時間レースにペスカロロ・01を16号車1台しか使用しなかった。17号車はプジョー・908 HDi FAPを使用した。ペスカロロ・スポール16号車は、9台のディーゼルエンジン車のLMP1勢とガソリンエンジン車のアストンマーティン・レーシングやオレカといったしぶといライバルを相手に総合8位に入っている。日本で行われたアジアン・ルマン・シリーズではソラ・レーシングとして中野信治が参戦、総合優勝した。12月、オーク・レーシングはペスカロロ・スポールの事業の製造部門を引き継ぐことについて、ペスカロロ・スポールと合意した。その結果、ペスカロロ・スポールに関わる全ての商業活動ばかりでなく、そのプロトタイプレーシングカーの開発とシャーシやボディワークやスペアパーツの製造などについてもオーク・レーシングが引き受けることになった。 2010年、ペスカロロ・スポールは6月に管財人による管理下に置かれた後に結局7月13日に解散に追い込まれた為、一切のレース活動を行なわなかった。10月15日、ペスカロロ・スポールの資産売却の際、オーク・レーシングのオーナーのジャック・ニコレとプレスティージ・レーシングのジョエル・リヴィエールは共同して敷地を購入し、後にアンリ・ペスカロロに譲与して、彼にペスカロロ・チームを復活させた。 2011年、ペスカロロ・スポールの財政難による破産の後、その事業を引き継いでチーム名を新しく「ペスカロロ・チーム」と改めた組織下のチームにペスカロロは復帰している。ペスカロロ・チームはル・マン・シリーズとル・マン24時間レースのLMP1クラスに参戦した。ペスカロロ・チームはカステレ6時間レースに1台のみで参戦し、念願の優勝を果たした。古いエンジンの為に規定の適用免除を受けたジャッドのV10を搭載したレースカーは、エマニュエル・コラール/クリストフ・タンソー/ジュリアン・ジュスのドライブにより2位に1周差をつけてチェッカーを受けている。 2012年、FIA 世界耐久選手権にペスカロロ・01のLMP1カーは開幕戦の1戦のみの出走で、その後はアストンマーティン・AMR-Oneをモディファイしたペスカロロ・03に切り替えることが予め決定されていた。ペスカロロ・01を使用する最後の機会となったセブリング12時間レースにおいて、総合6位・LMP1・3位に入っている。ル・マン24時間レースでは、16号車ぺスカロロ・03はリタイヤ、17号車は童夢とジョイントした童夢S102.5を走らしたが完走扱いに成らなかった。 ル・マンの後、ペスカロロ・チームは財政難に陥り、アンリ・ペスカロロはチームクルーの多くを解雇することを余儀なくされた。 2014年、ペスカロロ・チームは資産不足のために解散した。
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