2000〜2005
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 00:21 UTC 版)
「ジョン・アンドレッティ」の記事における「2000〜2005」の解説
2000年シーズンの途中で、チェリオスがアンドレッティのメインスポンサーとなった。これは、ペティ・エンタープライズがメーカーをダッジに切り替える前兆でもあり、チームが今シーズンはポンティアックでレースしつつ、将来に向けてダッジの準備も並行で行うという二重体制となったため、チームの状況は悪化し始めた。この年はトップ10フィニッシュを2回記録したものの、ランキングは23位に落ちた。2001〜2002年は、アンドレッティはエリオット・サドラーに次ぐ2位でフィニッシュしたブリストルを含め3回のトップ10フィニッシュを記録(これはペティエンタープライズとウッドブラザーズレーシングにとって最後の1-2フィニッシュとなった)。 2003年シーズンはハースCNCレーシングとリチャードチルドレスレーシングからいくつかのレースを走った後、後半戦はペンゾイルがスポンサーとなったデイルアーンハートインクの1号車シボレーをドライブ。最高位はカリフォルニアの8位だった。 2004年シーズンはレギュラーシートが得られず、デイトナに1号車でスポット参戦した後、シーズンの途中からビクトリーブランドがスポンサーとなったppcレーシングの14号車フォードトーラスで参戦。シャーロットモータースピードウェイで22位でフィニッシュした。2005年は引き続きppcと契約したものの、資金不足のためチームは解散を余儀なくされてしまう。シートを失った彼はビリーバリューモータースポーツからクラフツマントラックシリーズに4戦ドライブし、メンフィスモータースポーツパークでは8位でフィニッシュした。彼はまた、ルーカスオイルがスポンサードするモーガン・マクルアモータースポーツの4号車シボレーで数戦カップレースに復帰し、ミシガンインターナショナルスピードウェイでは1ラップダウンの28位でフィニッシュした。 2006年はppcに戻り、ブッシュシリーズの10号車をドライブ。それまでジョンはブッシュシリーズにほとんど(1998年のデイトナで、カーブアガジャニアンパフォーマンスグループの96号車シボレーで13位フィニッシュしている)参戦していなかったことから、カップ戦に300戦以上参戦し、2勝を挙げているベテランにもかかわらずルーキーオブザイヤーの候補となるも、結局、ダニー・オクィンへの次点となる。 2007年のデイトナでは、ppcレーシングとの提携したブラウンレーシングの FreedomRoads / Camping World / RVs.comがスポンサードする10号車をドライブするも、チームへの資金提供が疑わしいものになったためアンドレッティはブラウンレーシングを離脱。チームは2台体制を維持するために2007年中にさまざまなドライバーを起用することとなる。離脱後のアンドレッティはターナーネットワークテレビジョンのレース放送などに関わりつつ、ペティ・エンタープライズから45号車で4戦に参加、そのほか、フロントロウモータースポーツやBAMレーシングからも数戦スポット参戦した。 2008年はフロントロウモータースポーツに移籍し、スプリントカップシリーズの34号車シボレーインパラSSをドライブしてデイトナ500に参戦した。その後、最初の10レースに参戦した後、インディカーチームに集中するためにチームを離脱した。 2009年は、フロントロウとアーンハートガナッシレーシングのパートナーシップにより、ウィンドウワールド、 myAutoloan.com 、およびタコベルのスポンサードする34号車でフル参戦。2010年以降はにフルタイムで走ることは無かったものの、NASCARでの最後のレースであるデイトナ500ではフロントロウモータースポーツの34号車をドライブし、117周目のアクシデントを乗り越えて38位でフィニッシュした。
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