1972年オリンピック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 08:14 UTC 版)
「ラッセ・ビレン」の記事における「1972年オリンピック」の解説
ミュンヘンで行われた1972年のオリンピックでは5000メートル競走と10000メートル競走の金メダルを獲得した。9月3日に行われた10000メートル競走の決勝戦では12周目にベルギー選手エミール・プッテマンスともつれあって転倒したにもかかわらずロン・クラークが7年間保持した男子10000メートル競走世界記録(英語版)を更新した。ビレンとプッテマンスのほかにはチュニジアのモハメド・ガムーディ選手もビレンの足に躓いて転倒した。転倒したことによりビレンは先頭集団と20メートル離れてしまったが、彼は150メートル以内に先頭に追い付いた。その後、24周目になって残りが600メートルしかないところ、彼はラストスパートをかけて他を引き離し、プッテマンスのみがついていけて2着でゴールした。ビレンは27分38.40秒でゴール、ミュンヘン・オリンピアシュタディオンの記録となった。彼は1回のオリンピックで5000メートルと10000メートル競走を同時に勝利した4人目の選手であり、それ以前はフィンランド選手ハンネス・コーレマイネンが1912年に、チェコスロバキア選手エミール・ザトペクが1952年に、ソ連選手ウラジミール・クーツが1956年に達成しており、ビレンの後はエチオピア選手ミルツ・イフターが1980年に、同じエチオピア選手ケネニサ・ベケレが2008年に、イギリス選手モハメド・ファラーが2012年と2016年に達成した。しかし、10000メートル競走の予選も走らなければならなかったのはコーレマイネン、ビレンとイフターの3人だけだった。1週間後の5000メートル競走では最後の4周でスティーブ・プリフォンテーン(英語版)、ガムーディ、プッテマンス、イアン・スチュワートとともに先頭集団を形成していたが、残り110から120メートルのところでガムーディを追い越して13分26.4秒でゴール、ガムーディとは1秒差となった。その4日後、湿っぽく寒い上に風の強い天気の中、ビレンはヘルシンキ・オリンピックスタジアムで5000メートルを13分16.4秒で走り終わり世界記録を作った。その6日後、プッテマンスが世界記録を更新して(英語版)さらに3秒短くした。 ビレンがオリンピックで優勝できた要因、特に1972年オリンピックの5000メートルと10000メートル競走で優勝できた要因はあまり注目を受けていない。その要因とはビレンがほぼすべての曲がりで第1レーンの内側の縁を走っており、合計でライバルたちと比べて数十メートル少なく走ったことである。具体的には5000メートル競走ではプリフォンテーンがビレンよりも40メートル以上多く、10000メートル競走ではプッテマンスがビレンよりも50メートル以上多く走った。2人とも第1レーンの外側の縁、または第2レーンを通ったのが原因だった。この総距離を減らすテクニックは「曲がり(カーブ)の数学」(Bend (curve) mathematics)と呼ばれている。
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