1970年4月
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「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」の記事における「1970年4月」の解説
1970年初頭、レノンとマネージャーのアラン・クレインから依頼を受けたフィル・スペクターによって再プロデュースされ、アルバム・タイトルも「レット・イット・ビー」に変更された。当時、マッカートニーはクレインをマネージャーに迎えることを反対していたため、当時バンドメイトと疎遠になっていた。スペクターは、オーバー・ダビングに際して、1月26日のテイクを採用した。 スペクターは再プロデュースに際し、楽曲に対してさまざまな装飾を施した。顕著な例として、1970年4月1日にEMIスタジオで行なった本作と「アクロス・ザ・ユニバース」、「アイ・ミー・マイン」のためのオーケストラや合唱のオーバー・ダビング・セッションが挙げられる。このセッションにビートルズのメンバーから唯一参加したスターは、外部ミュージシャンと共にスペクターの特徴となる「ウォール・オブ・サウンド」を作り出した。アップル・コアのエンジニアであるピーター・ブラウンによると、その日のスペクターは執拗に各パートにエコーを求めた上、ボディーガードを同伴し、多数の薬物を30分おきに服用していたが、次第に指示が支離滅裂になり、オーケストラの団員は演奏を拒否した上、ブラウン自身も腹を立てて帰宅してしまったという。その後、スペクターは電話でブラウンに戻ってくるように懇願し、スタジオに残ったスターは、一人でスペクターをなだめすかしていた。 スペクターは、ヴァイオリン(8丁)、ヴィオラ(4丁)、チェロ(4台)、ハープ(1台)、トランペット(3本)、トロンボーン(3本)、ギター(2本)、ドラム、そして14人の女性の合唱団を起用して、オーバー・ダビングを施した。オーケストラの指揮はリチャード・ヒューソン が務めた。この日に行なわれたオーバー・ダビング・セッションは、ビートルズが当初掲げていたコンセプトと正反対のものとなった。 4月2日にアルバムを完成させたスペクターは、各メンバーに対して「アルバムについて何かしたいことがあれば、言って欲しい。喜んで手伝うよ」というメモ書きと共にアセテート盤を送った。これに対して、メンバー全員がスペクターの作業を電報を通じて承認した。
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