1917年革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/30 13:18 UTC 版)
「アレクサンドル・クプリーン」の記事における「1917年革命」の解説
二月革命の頃、クプリーンはヘルシンキにいた。彼はここで医者による診察を受けに行っていた。ガッチナに戻り、5月に社会主義革命家の新聞『Svobodnaia Rossiya』(自由ロシア)の編集を始め、『Volnost』(自由)や『Petrogradskii Listok』(ペトログラードリーフレット)にも寄稿、ツァーリズム崩壊への熱意を一連の記事の中において表明した。二月革命によってもたらされた自由を歓迎する一方で、さらなる混乱をもたらす過激な行動を予測し、ロシアが流血騒ぎの濫行に突入することを警告した。 クプリーンは十月革命では政治的立場をほとんど表明しなかった。1918年半ばまで『Petrogradskoe Ekho』 (ペトログラードのこだま), 『Vecherneye Slovo』 (夕刻の談話), 『Zaria』 (曙光)等その他寄稿した様々な新聞記事の中で、新体制に対する態度を決めかねたままだった。彼はボリシェヴィキ革命の歴史的意義を認識していることを語り、「正直で勇敢な男」とレーニンを賞賛して、ボルシェヴィズムが人類のために避けられない偉大で、純粋な公平無私な教義を構成していると述べた。まだ、マクシム・ゴーリキーの世界文学出版社で働いていた頃に、彼は穀物割当徴発制度や戦時共産主義の政策を批判、ボリシェヴィキはロシア文化の存立を危くし、国土におけるボリシェヴィキの不適当な認識によって人々に苦しみをもたらしたと主張した。 1918年6月、クプリーンは政権に批判的な新聞『Molva』 (風聞)の記事によって逮捕され、短い期間、拘留された。1918年の小説の一つ"The Caterpillar"で女性革命家のヒロイズムを賞賛、さらに"The Ghost of Gatchina"はロシアで新たに現れた支配者の専制政治について描かかれた反ボリシェヴィキ物語。 1918年暮れ、クプリーンは特別に農民層のために机上で設計した緻密な計画「ズィムリャー」 (土地)を立案した。提案したプログラムでは、共産主義の原則に矛盾しない線に沿ったうえで農村生活の根本的な変化について政府を補佐、関与することを伴っていた。提案はゴーリキーに支持され、1918年12月25日にクプリーンとの会合を経たレーニン自身によって承認されたが、結局プロジェクトは実現しなかった。
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