1900年 - 1920年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 04:30 UTC 版)
「リーハイ・バレー鉄道」の記事における「1900年 - 1920年」の解説
幸運にも穀物の輸送量が増大し、リーハイ・バレー鉄道は大量の穀物をバッファローからフィラデルフィアへ、そしてほかの東部の市場へと輸送した。また、1914年にはパナマ運河が開通し、南アメリカからベスレヘム・スチールへ向けて出荷される鉄鉱石の輸送という重要な新しい業務を得た。この新しい海洋に対する輸送を取り扱うために、リーハイ・バレー鉄道はコンステーブル・フック(英語版)に新しく巨大な桟橋を建設して1915年に開業し、またクレアモントに新しいターミナル(ポート・ジャージー(英語版))を建設し1923年に開業した。 また1915年にはバッファローに旅客ターミナルも建設した。1896年以来、リーハイ・バレー鉄道はフィンガー湖沼群やバッファローまで、ブラック・ダイヤモンド(英語版)という名前の急行列車を運行していた。さらに別の旅客列車もフィラデルフィアからスクラントンやそこから西へ運行されていた。当初から、リーハイ・バレー鉄道のニューヨークへの旅客は、ジャージーシティにおいてペンシルバニア鉄道のターミナル駅とフェリーを利用してきた。しかし1913年にペンシルバニア鉄道はこの契約を終了させたため、リーハイ・バレー鉄道はセントラル・レールロード・オブ・ニュージャージーと契約してそのターミナル駅とフェリーを利用することになり、増加する旅客を扱うために設備が拡張された。 1914年から1918年にかけての戦時中にリーハイ・バレー鉄道は、1900年にナショナル・ドックス鉄道とともに取得したブラック・トム島の設備で兵器や爆発物の取り扱いを行っていた。1916年にこの設備ですさまじい大爆発が発生し、船舶や設備を破壊しマンハッタンの建物の窓ガラスを割った。この件は当初事故であると判断されたが、長い捜査の末最終的にこの爆発はドイツの破壊工作によるものであると結論付けられ、1979年までかかって賠償金が払われた(ブラック・トム大爆発)。 アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦した後、ストライキを防ぐためにアメリカの鉄道網は国有化された。アメリカ合衆国鉄道管理局が1918年から1920年まで鉄道を管理し、それから再び民間の手に管理が戻された。リーハイ・バレー鉄道にとっての利点としては、政府が購入した多くの新しい車両を手に入れたことが挙げられる。
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