17代時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:24 UTC 版)
1975年(昭和50年)3月28日、二所ノ関部屋の師匠・8代二所ノ関(元大関・佐賀ノ花)が急性白血病で急逝した。この時、1974年(昭和49年)11月場所限りで現役を引退して二所ノ関部屋付きになっていた17代押尾川(元大関・大麒麟)は同部屋の後継者として名乗りを上げたが、8代二所ノ関の通夜の晩に後継に名乗りを上げた大鵬(48代横綱・一代年寄)、部屋の関脇・金剛に部屋を継がせたかった8代二所ノ関未亡人との話し合いは決着がつかず後継者争いは長期化し、暫定的に二所ノ関一門の最長老であった湊川(元前頭筆頭・十勝岩)が9代二所ノ関を襲名して二所ノ関部屋を引き継いだ。 そして1975年(昭和50年)9月場所前、金剛が8代二所ノ関の次女と婚約を発表し娘婿になることで後継者争いに事実上の決着を勝ち取った。これに不満をもった17代押尾川は、同年9月3日に自分を慕う16名の力士を連れて谷中・瑞輪寺に立てこもり、二所ノ関部屋からの分家独立を申し出た。しかし独立は紛糾し、11代花籠(元前頭3枚目・大ノ海)の調停により、最終的に1975年(昭和50年)9月場所後、16名中6名(同場所で新小結の青葉城ほか)だけを連れて行くことで押尾川部屋の分家独立が承認された。このときに移籍が認められなかった幕内・天龍はそれを不服として、1年後の1976年(昭和51年)9月場所を最後に26歳の若さで廃業して全日本プロレスに入門した。 押尾川は独立時の紛糾をバネに青葉城、益荒雄の2人の関脇をはじめ、一代で8人の幕内力士を育て上げたが、直弟子の出世頭であった益荒雄改め12代阿武松が分家独立を求めて破門同然の形で部屋を去り(大鵬部屋に移籍後阿武松部屋を独立)、その他の幕内力士も相次いで廃業・引退したため、結局2005年(平成17年)3月31日をもって部屋を閉じることになった。
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