17代当主について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 18:45 UTC 版)
島津義弘を第17代当主とする史料の初出は、幕末に編纂された『島津氏正統系図』と考えられている。これ以降、島津家の系図はこれを基に作られ「義弘=17代当主」という認識が定着していった。また秀吉の九州征圧後、義久に大隅を、義弘に薩摩をそれぞれ蔵入地として宛がったことも義弘が当主であるという認識を補強する材料となった(島津=薩摩という印象から、「薩摩を与えられたのだから当主なのだろう」という見方ができる)。 しかし1980年代に入ってから、島津家当主の証しである「御重物」の研究が西本誠司によって進み、当主の地位が義久から忠恒に直接譲られていることが判明すると、義弘は17代当主ではなかったという学説が山口研一や福島金治ら多くの研究者に支持されるようになった。以降、義弘は「当主であった説」と「当主ではなかった説」が並列するようになった。 なお、島津家関連の物品を所蔵・研究・展示している尚古集成館では系図重視の観点から義弘を第17代当主と認定していたが、2004年に尚古集成館文化財課長で鹿児島大学法文学部非常勤講師の松尾千歳も義弘は当主ではないとする論文を発表した。尚、現在も続く当の島津本宗家および当の尚古集成館自体は2016年の現在も義弘を17代当主としている。 また、島津氏の家督継承に関しては、室町時代中期に島津忠国が一時期に弟の用久(持久)に家督を譲っていたものの最終的に家督を取り返したとする新名一仁の説や戦国時代に島津勝久を追放した薩州家の島津実久が宗家重臣の支持を受けて家督を一時継承したとする山口研一の説が出されており、島津本宗家および尚古集成館の見解とは異なる変遷像が描かれつつある。
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