1. 浅田家の商人的活動と藤堂藩
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「浅田家文書」の記事における「1. 浅田家の商人的活動と藤堂藩」の解説
「木津川」は淀川水系の一つで、江戸時代には川下の淀大橋から川上の笠置までの間およそ九里を指し、川幅は下流の淀大橋にて一三七間あった。上流の山は花崗岩の風化した砂山だったので砂が流出、堆積して木津川とその支流の川床が高くなって度々氾濫した。ことに正徳2年(1712年)は被害が大きかったので、木津川流域の近世前期の文書はあまり残存していない。浅田家は流域の中程、流れが西から北へ向きを変える扇状地の環濠集落内にあったため難を逃れ、近世初期から蓄積された同家の文書も残存した。「木津川舟運」とは淀・笠置間の船による輸送を指す。この舟運を利用した村は、宝永3年(1706年)の史料によれば山城国綴喜・久世・相楽三郡で七六ケ村になり、同8年(1711年)の史料には、北東に隣接する近江国甲賀郡信楽郷十八ケ村が大坂へ煎茶を出荷するため、相楽郡和束郷を経由して和束の木屋浜から木津川舟運を利用したとある。また笠置より上流の柳生藩の村や、更に東に隣接する藤堂藩領である伊賀国は伊賀街道の馬方を使って、笠置を起終点として木津川舟運を利用していた。このように木津川は、江戸時代を通じて山城・近江・伊賀にまたがる畿内の経済的政治的に重要な交通路だった。木津川と京街道の交差点に位置する木津浜は「木津川筋六ケ浜」の主要な一つもあり、交通の要所だった。同浜を含む木津郷は天領・旗本領・朝廷領・公家領・その他で構成され、南に藤堂藩大和領があり、北の木津浜対岸には同藩領上狛四ケ村があったため、藤堂藩にとっては同藩大和領と京への道である京街道を結ぶ重要地点であった。木津浜に向き合う新在家浜は上狛村域になる。浅田家は、このような地の利を得て、上狛四ケ村が藤堂藩領となった元和5年(1619年)から4年後の同9年以来、上狛四ケ村を代表する庄屋として存在していた 。
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