高級娼婦としての生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 00:53 UTC 版)
「ヴェロニカ・フランコ」の記事における「高級娼婦としての生涯」の解説
ルネサンス時代のヴェネツィア社会では、2つの異なる階級の高級娼婦を認めていた。それは、"cortigiana onesta"、つまり「知的な高級娼婦」と "cortigiana di lume"、下流層向けの売春婦であった。下流層向けの売春婦はリアルト橋の近くで生活し、売春を行っていた。16世紀のヴェネツィアにおいて、優れた教育を受けたことや、数多の文学的、芸術的業績を収めたことを誇る高級娼婦はヴェロニカ・フランコだけではなかったとはいえ、おそらく彼女は、上流階級向けの売春婦の中で最も誉め称えられたものであっただろう。上流階級向けの高級娼婦の娘であったフランコは幼い頃、母親から芸術について学んでおり、経済的に恵まれた結婚をするために、自身の生来の素質や能力を使うことを叩き込まれていた。フランコは、まだ10代の内に裕福な医者と結婚したが、結婚生活はうまく行かないまま終わった。彼女は生計を立てるために、裕福な男性を相手にした売春婦となった。彼女はすぐに、その当時の主立った著名な名士たちとも交際するような階級にまで上りつめ、フランス国王のアンリ三世と短期間交際することまでしていた。フランコは1565年頃出版されたCatalogo de tutte le principal et più honorate cortigiane di Venetiaにおいてヴェネツィアの主要な売春婦の一人として挙げられていた。高学歴の女性であったヴェロニカ・フランコは二巻の詩集を書いた。それは、1575年に書かれたTerze rimeと1580年に書かれたLettere familiari a diversiである。彼女は書簡の本を出版し、他の優れた作家の作品を選集にした。フランコの二種類の刊行物は人気を博し、フランコはそれで得た収入を高級娼婦やその子供たちのための慈善団体を設立した。1575年ヴェネツィアの町を破壊したペストが流行している最中、ヴェロニカ・フランコはヴェネツィアから余儀なく退去させられ、自身の家や所有物が略奪された時に財産の多くを失ってしまった。1577年にフランコがヴェネツィアに戻ってきた時、妖術の罪での宗教裁判に直面して彼女は厳然として自衛を図った。妖術はその当時、売春婦に対してよく申し立てられた告訴内容であった。その告訴は退けられた。フランコがヴェネツィアの貴族と関係を持っていたことで彼女が無罪放免になったという証拠がある。現存する記録によると、彼女は無罪放免となったとはいえ、財産や富の全てを失ってしまったとある。しかし、後半生のほとんどよく知られていない。ついに、フランコの最後の主要な後援者が亡くなり、彼女は経済的な支援が絶たれてしまった。フランコの最期はほとんどの部分がはっきりと分からないが、かなり貧しい中で亡くなったと考えられている。
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