騎手・福永祐一の父として
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「福永洋一」の記事における「騎手・福永祐一の父として」の解説
「福永祐一の騎手デビューは、かつて見たことのない恵まれたものになった。海のものとも山のものとも分からない新人に、騎乗依頼が集まること集まること。この世界には、『昔、洋一さんに世話になったから』という人が溢れるほど潜んでいたのだ」 片山良三 以降もリハビリが続けられる傍らで、長男・祐一は1992年に競馬学校を受験し、2世騎手への道を進み始めた。同年の結果は不合格であったが、「願書を出した」というのみで新聞に報じられ、さらに1993年の入学に際しては金屏風を前にしての記者会見が行われた。祐一は1996年3月2日に騎手としてデビューし、初騎乗初勝利を挙げた。この様子を洋一はテレビで観戦し、ゴール後は笑みを浮かべ、柴田政人からの「勝ったところを見たか」という電話に対し「うん」と返答した。開催を終えた祐一が帰宅した際には、直々に「おめでとう」と声を掛けている。祐一は父が築き上げた人脈の恩恵も受け、当年新人としては異例の50以上の厩舎から騎乗を依頼され、新人騎手として史上3位の記録(当時)となる53勝を挙げてJRA賞最多勝利新人騎手を受賞した。 祐一は1997年に行われたインタビューの中で、自身が「福永洋一の息子」と喧伝されることに対して「僕は全然嫌じゃないです。だって実際に僕は福永洋一の息子なわけですから。父がいなければ僕もいないんだし、父のことは尊敬していますしね。このまま最後まで"洋一の息子"でもいいと思ってます」と語り、また一方で、父の偉大性については「よく分からないです」と答えていた。 2004年1月にはJRA50周年記念事業の一環として調教師・騎手を顕彰してその功績を称えることとなり、洋一は「騎手として通算983勝を挙げたほか、9年連続して年間最多勝を記録、さらに3歳クラシック競走並びに天皇賞の各競争において通算で6勝を挙げるなど顕著な成績を収め、中央競馬の発展に多大な貢献があった」として、騎手としては野平祐二、保田隆芳と共に顕彰された。 以後、祐一は毎年ランキングの上位を占める騎手として定着し、2008年9月27日には983勝目を挙げ、通算勝利数において洋一の記録に並んだ。この際に祐一は「父の背中を追いかけてきたが、近付くにつれ色々と見えてきて、最初より遠ざかったようにも思えた」と述べた。翌28日には984勝を達成して洋一の記録を更新、11月30日には洋一が直前まで迫りながら達成できなかった通算1000勝を記録し、「福永洋一の息子として競馬の世界に入り、父に縁のある方々に支えられ、ここまでやってこられました。先日、父の勝利数を超えたことで自分の中でもおもりが取れ、福永祐一個人として歩み出せたような気がします」と語った。
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