新人騎手として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:38 UTC 版)
1968年3月2日の京都第2競走・4歳未勝利で初騎乗を迎え、シュクホウで3着。2週間後の同17日の京都第3競走・4歳未勝利で同馬に騎乗して初勝利を挙げた。初年度は全国82位の14勝を挙げ、中央競馬関西放送記者クラブ賞を受賞するなど幸先の良いスタートを切ったが、この頃の騎乗は、他馬に危険がおよぶような粗雑な印象を周囲に与えるものであり、他の騎手からの評判は芳しくなかった。7月20日には競走中に大きく斜行して後続馬の進路を塞ぎ、騎手が落馬する事態を引き起こし、開催4日間の騎乗停止処分を受けた。この最中、他の騎手から洋一の騎乗についてたびたび苦情を受けていた栗田が、競馬会の採決委員・筧丈夫に対し、騎乗の検証と、必要に応じて注意勧告を行うように依頼した。しかし筧がパトロールフィルムを精査した結果、粗雑に見える騎乗は、ほとんどがぎりぎりの範囲ながら規則内に収められており、「勝利への最善を尽くしている現れであり、あとはモラルの問題」という結論に達し、注意は行われなかった。 2年目の1969年も順調に勝利を積み重ねていたが、5月4日の京都第7競走・つつじ賞でキタヤマニシキに騎乗した際、1位入線後に負担重量の不足が判明し、3か月間の騎乗停止、さらに師匠の武田から1か月間の騎乗自粛を通告された。この期間中、洋一は大井で騎手を務めていた次兄・二三雄の元をたびたび訪れ、佐々木竹見の騎乗を初見の競走から「あの人は凄く上手い」と思い、佐々木のスタート勘、ペース配分の妙などに非常に感心していた。復帰後は武田の意向により札幌で騎乗し、初経験のダートの乗り方を二三雄に教わり、開催前半で次々と勝利を重ねた。しかし二三雄から伝授された乗り方を愚直に繰り返したため、開催後半に入り失速する。ここで二三雄に再度の教えを請うた際、「周りの騎手だって馬鹿じゃない。同じ作戦ばかりじゃなく、たまには逆をいってみろ」と窘められ、以降、臨機応変の騎乗を身に着けていった。札幌開催を終えて関西に戻ると、以降は安定して勝利を重ね、この年45勝を挙げて全国11位と躍進した。
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