題材の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/05 23:15 UTC 版)
「1791年5月3日憲法 (絵画)」の記事における「題材の背景」の解説
5月3日憲法は、1791年のこの日にポーランド・リトアニア共和国のセイムで「統治法」(ポーランド語: Ustawa rządowa)の1つとして採択された。この形式の近代的成文憲法としてはヨーロッパ初のもので、世界的に見てもアメリカ合衆国憲法に次ぐ2番目に古い憲法である。 この憲法は、長きにわたって続いてきたポーランド・リトアニア共和国の政治的衰退から脱却することを志したものだった。貴族が広範な特権を有して黄金の自由と呼ばれてきた時代は、同時にポーランド・リトアニア共和国崩壊の時代でもあった。各地のマグナートが半独立して事実上の無政府状態になっていた国家を立て直し、より民主的な立憲君主制を樹立することが憲法の主眼だった。都市民と貴族(シュラフタ)は身分的に平等とされ、農民も政府の保護下に置かれることで農奴制から解放されることになった。またセイム制度の麻痺や議員の腐敗、外国の介入の原因であった自由拒否権などの悪制も一掃された。 しかし5月3日憲法を採択したポーランドに対し、周辺諸国は強い警戒を示した。ついに1792年にはロシア帝国の侵攻を招き、ポーランド・ロシア戦争が勃発した。この戦争は「憲法防衛戦争」と呼ばれることもある。特権剥奪に反発してタルゴヴィツァ連盟を結成したポーランドのマグナートは、ロシア皇帝エカチェリーナ2世のもとに参じてスタニスワフ2世アウグストらと戦った。ポーランドの頼みの綱であったプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世にも同盟を破棄され、最終的にこの戦争はポーランドの敗北に終わった。結局、5月3日憲法は採択からわずか1年強で廃止された。この後ポーランドは分割され消滅するが、その後の123年間に及ぶポーランド主権復活を目指した闘争のなかで、5月3日憲法は象徴として掲げられ続けた。憲法起草者のイグナツィ・ポトツキとフゴ・コウォンタイは、5月3日憲法は「国の最後の意志であり、遺言であった」と述べている。
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