青森教会主任司祭として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 07:42 UTC 版)
「ユルバン・ジャン・フォーリー」の記事における「青森教会主任司祭として」の解説
フォーリーがフランスへ帰国していた間に、日本では三国干渉などの影響で欧米人に対する日本人の態度が一変し、布教活動が非常に難しくなっていた。教区長のベルリオーズは布教体制を強化するためフォーリーのもとに1897年(明治30年)にビアニック、翌1898年(明治31年)にはモンジュを助任司祭として赴任させた。フォーリーも青森市寺町にあった仮教会では不都合が多かったので、植物標本を送って得た謝礼金で青森市浦町の土地建物を購入し、教会を移転した。1899年(明治32年)3月27日、フォーリーはフランス政府よりフランス学士院の会員に推薦され、翌1900年(明治33年)にはフランス学士会より植物名誉勲章が贈られた。 1904年(明治37年)2月8日、日露戦争が勃発するとフランスがロシアの同盟国なこともあり、フォーリーらカトリックのフランス人宣教師たちはスパイとしての嫌疑を受けた。他のキリスト教(プロテスタント、聖公会、正教会等)も同様に疑われキリスト教全体の布教活動が停頓状態に陥る中、フォーリーは植物採集の報酬を資金として粛々と布教活動を行った。 1906年(明治39年)4月、かねてから希望していた朝鮮半島での採集を10月まで滞在して行った。1908年(明治41年)には樺太へ植物採集に行き、豊原市に地所を購入、伝道所を開設した。 1909年(明治42年)5月からハワイへ渡航し植物採集に行ったが、フォーリーが留守中の翌1910年(明治43年)5月3日、青森市安方町の菓子製造工場煙突からの火の粉が強風にあおられ、隣家に燃え移り、4時間ほどの間にほぼ市内全域を焼き尽くす大火災が発生した。この火災により青森教会も教会堂や司祭館など大部分を焼失したが、植物貯蔵庫だけはレンガ造りのため焼失を免れ、標本は無事だった。フォーリーはすぐに帰国し、教会の再建計画を立てるとともに教会を一時、浦町へ移転した。青森教会は1913年(大正2年)に再建されたが、その再建費用の大半はフォーリーが支出した。
※この「青森教会主任司祭として」の解説は、「ユルバン・ジャン・フォーリー」の解説の一部です。
「青森教会主任司祭として」を含む「ユルバン・ジャン・フォーリー」の記事については、「ユルバン・ジャン・フォーリー」の概要を参照ください。
- 青森教会主任司祭としてのページへのリンク