青少年期・政界進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 09:20 UTC 版)
「ヴァレリー・ジスカール・デスタン」の記事における「青少年期・政界進出」の解説
一家はパリ8区フォーブール=サントノレ通り71番地に居住した。ヴァレリーは青少年期に16区ポンプ通りの私立小学校 エコール・ジェルソンを経て、クレルモン=フェランのリセ・ブレーズ=パスカル、16区リセ・ジャンソン=ド=サイイ、5区リセ・ルイ=ル=グランCPGEと、いずれも名門校に学んだ。時はナチス・ドイツによるフランス占領時代、バカロレア資格を得た後同校CPGEに戻らずレジスタンス運動に身を置いた。第二次世界大戦後にパリのエコール・ポリテクニーク(理工科学校)と国立行政学院(ENA)に学んだ。 国立行政学院を卒業後に父と同様に財政監査総局(フランス語版)勤務を経て、エドガール・フォール首相の許で政策スタッフとなる。1956年1月に実施された総選挙でアントワーヌ・ピネー率いる独立農民派(CNI)から国会議員に当選し、第五共和政の成立でピネーが経済財務相として入閣すると、金融担当の秘書官となった。 1962年1月にミシェル・ドブレ内閣の改造人事で経済財政相として初入閣した。この時ヨーロッパ政策をめぐって独立農民派主流と対立して同党を脱退し、新たに独立共和派(RI)を結成した。ジョルジュ・ポンピドゥー内閣でも閣内に留まったものの、1966年1月に解任された。それでも与党傍流として活動を続け、1969年6月から1974年5月まで再度経済財務大臣を務めた。 1974年4月に大統領だったポンピドゥーが急死すると、ドゴール派主流のジャック・シャバン=デルマスに対抗して、同年5月に実施される大統領選挙に出馬した。独立共和派は元より、中道派野党の急進社会党や民主中道派・民主進歩中道派、更にはドゴール派の中でもシャバン=デルマスと対立していたジャック・シラクの支持まで取り付け、第1回投票では左翼統一候補だったフランソワ・ミッテランに後れを取ったものの、シャバン=デルマスを上回る得票を獲得した。そして決選投票でミッテランを破り、大統領に当選した。
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