階段状連房式登窯-肥前と瀬戸・美濃の違い
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「連房式登窯」の記事における「階段状連房式登窯-肥前と瀬戸・美濃の違い」の解説
割竹形は、肥前でも瀬戸・美濃でも1630年代から廃れ、かまぼこ状ないし楕円形の焼成室を連ねる階段状連房式登窯にとって代わられるようになる。肥前では、通焔孔は一貫して横サマ構造であった。 階段状連房式登窯の長さは全長30メートル前後で、焼成室は10数室であったが、18世紀に波佐見で出現した窯では全長100メートルを超え、焼成室は30室以上、全長160メートルを超えるものも見られた。 瀬戸・美濃では、17世紀後半になると、窯ヶ根1号窯のように16世紀の大窯の縦に勢いよく焼成ガスを通す倒炎式と呼ばれる長所を意識して、縦サマの窯が造られるようになる。それ以降、瀬戸では19世紀に造られた丸窯を除いて縦サマであり、丸窯も横サマの通焔孔の後ろに「楯」という構造を用いて縦サマと同じ効果になるよう工夫されている。瀬戸の19世紀の窯は、ほかに本業窯と古窯があり、本業窯は陶器を焼く窯で古窯は磁器を焼く窯であった。両方ともサヤ積みとたな組みにて製品を焼成した。古窯は2 - 4室の窯で、丸窯は4 - 11室の焼成室をもっていた。 連房式登窯は瀬戸・美濃において上段の焼成室の横幅が時期が降るにつれて拡張する傾向があり、17世紀中葉では、第2室と第10室の横幅の差は71センチメートル(穴田1号窯の例)であったが、18世紀中葉になると200センチメートル(尾呂3号窯の例)、20世紀前半になると469センチメートル(湯ノ根東窯の例)の差がみられる。 瀬戸・美濃では、18世紀後葉まで、窯の長さは平均13 - 15間で焼成室の数も間数と同じくらいであったが、美濃では19世紀になると30房になるものもみられる。また瀬戸の焼成室は、横幅は拡張するが、奥行きについては17世紀の元屋敷窯において1.36メートル、18世紀前半から中葉の尾呂1号窯では0.98メートルとやや縮小した。18世紀後葉のかみた1号窯で1.17メートル、19世紀前葉の勇右衛門窯で1.76メートル、20世紀の窯である湯ノ根東窯でようやく2.18メートルに達した。このように、瀬戸では肥前が17世紀末に奥行き4メートルに達したのに対し、奥行きが拡張しなかったのが大きな特徴である。
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