閩中郡の設置とは? わかりやすく解説

閩中郡の設置

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 06:13 UTC 版)

閩越」の記事における「閩中郡の設置」の解説

紀元前221年、秦が中国統一すると、閩中に対して派兵し翌年には閩越人の活動地域に閩中郡設置した当時秦朝は閩中は中原から遠く離れた荒服の地と認識し、また治地勢険しく越人強悍であり統治は困難との認識有していた。そのため秦の48郡の一つとして中郡設置したが、その統治方法は他の郡とは異なったものであった。秦末に守尉令長を派遣したが、閩越王の王位を廃し「君長」の名義与え従来どおりの統治行わせる留まり実質的な統治力が及ぶものではなかった。 しかし閩越への影響力強めたい秦は、越人大量に現在の浙江省北部安徽省江西省へと移民させ、また中原犯罪者中心に移民進め、その融合図った紀元前209年陳勝・呉広の乱発生すると、それまで秦の影響力有していた各地影響与えた閩越騶無諸は兵を率いて閩中より北上し中原農民叛乱加勢秦朝打撃与えている。紀元前206年に秦が滅亡して楚漢戦争が始まると、騶無諸再度中原北上し劉邦支援して項羽撃破漢朝創建貢献している。紀元前202年漢朝騶無諸支援感謝して閩越王に封じ、閩中の統治認めた騶無諸仙游一帯その影響下に置いた。またこの年騶無諸閩越王城再建着手している。 閩越王城面積48万平メートル4つの城門を有していた。東西城門間には丸石舗装され10メートル幅の大通り整備され通り北側には2万平方メートル宮殿区が設けられた。当時閩越東南一帯最大勢力であり、王城現地最大の都市であった考えられている。1世紀に及ぶ発展の中、閩越人は百越文化風俗習慣宗教文化芸術等を維持し政事経済面では華夏文化の影響を受け、燦爛たる閩越文化創造していた。 騶無諸死後その子孫の間で内訌発生し、しばしば内戦及んだそうした中でも北方東甌南方南越攻略し百越諸民の服従のみならず周辺諸国朝貢をも実現し前漢南方一大勢力となっていた。 閩越王騶余善の時期には「武帝」の玉璽刻印し皇帝として自立、反漢の兵を挙げた。この時期漢朝武帝治世下で国力充実していた時期であり、地方勢力強大化に反対していた時期である。武帝匈奴攻略し北方安定させた後、数十の兵を閩越派兵した同時に漢朝閩越に対して政治工作行い一部勢力漢朝帰順させることに成功している。事前準備整えた武帝紀元前110年大軍をもって閩越を江淮の内地遷すことを命じ閩越滅亡した

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