閨秀画家の双璧とは? わかりやすく解説

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閨秀画家の双璧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:14 UTC 版)

池田蕉園」の記事における「閨秀画家の双璧」の解説

1908年明治41年)の第2回文展には「やよい」を出品して3等賞を受賞したこの年には師・年方が死去したため、翌1909年明治42年)からは輝方とともに川合玉堂師事し鈴木華邨にも指導を受ける。こうした研鑽甲斐あってか、この前後の数年間は彼女の全作品半分以上集中して生み出され完成度の高い力作集中する充実期となった同年刊行泉鏡花の『柳筥』の挿絵知られており、同年第3回巽画会展へは「帰途」、やはり同年第3回文展に「宴の暇」、1910年明治43年)の第4回展に「秋のしらべ、冬のまどい」、1915年大正4年)の第9回展に「かえり路」を出品してそれぞれ3等賞、1916年大正5年)の第10回展では「こぞのけふ」で特選受賞し1912年大正元年)の第6回展第2科の「ひともしごろ」、1914年大正3年)の第8回展の「中幕のあと」はともに褒状受けた1910年明治43年)の日英博覧会には「紅葉狩」「貝覆」の二曲一双屏風出品した1911年明治44年)の第1回東京勧業博覧会出品した夢の跡」では、「朦朧派」の影響の下、人物の目元などにぼかしをかける叙情的な表現用いられたが、これは伊東深水竹久夢二などの追随者を生んだ。 この活躍により、同様の動き見せていた京都の上村松とともに「東の蕉園、西の松園」「閨秀画家の双璧」「東西画壇」とされた他、のちには大阪島成園加えて三都三園」と呼ばれたりもした。こうした一方で泉鏡花の『柳筥』『白鷺』の口絵を手がけ、徳田秋声の『誘惑』、雑誌女学世界」「女鑑」「少女世界」「少女画報」などの挿絵描いた。蕉園自身泉鏡花文学熱烈なファンでもあり、1908年明治41年)には彼を支持する人々集まり鏡花会」に参加鏡花本人のほか、長谷川時雨との交友も盛んとなった。このほか観劇邦楽などの愛好家としても知られた。

※この「閨秀画家の双璧」の解説は、「池田蕉園」の解説の一部です。
「閨秀画家の双璧」を含む「池田蕉園」の記事については、「池田蕉園」の概要を参照ください。

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