閩南歌仔戲(薌劇)
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1925年、廈門の梨園戲団の双珠鳳が台湾歌仔戯劇団員を招聘し教授を受けたことで閩南地区での流行が始まった。1926年、台湾の玉蘭班は廈門新世界劇場で連続4ヶ月の公演を行い、1928年には台湾人が福建省漳州白礁慈済宮で祖先への祭祀を行う際,台湾歌仔戯劇団である三楽軒による上演を行ったことで廈門で大きな反響を呼んだ。その後閩南地区では様々な歌仔戯劇団が組織されることになる。 当時中国大陸で大きな影響を与えた台湾劇団員として戴水宝、温紅塗などがあり、特に温紅塗の影響力は非常に大きかった。 福建の芸人である邵江海、林文祥(両名とも温紅塗の弟子。王錦泉、呉泰山、盧培森等と共に学んだ)は歌仔戯の曲調に変化を加え「改良調」を完成、台湾の楽器を排除した改良劇を提唱し、南管(南音)楽器である「三弦」、「洞簫」、「六角弦」をそれぞれ台湾の月琴及び品仔(笛)、殻子弦や大廣弦の代わりに使用して国民政府の取締りを逃れようとしている。
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