閩越と東甌の征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 23:51 UTC 版)
詳細は「漢の閩越征服」、「閩越」、および「騶余善」を参照 武帝の時代になると、漢は南方で自立を許していた越人の国々の併合に乗り出した。紀元前138年、閩越に攻められた東甌が漢に救援を求めた。しかし武帝の側近の田蚡は、越人は信用できないと言って介入に反対した。越人の国同時の衝突はたびたび起こることであり、田蚡は漢がわざわざ介入する義務はないと考えていた。これに対し中大夫の荘助は、皇帝は天子として小国の紛争に介入しなければならないと説いた。荘助率いる漢の水軍が紹興から出発したのを知ると、閩越は降伏し、東甌から撤退した。また東甌人は、長江・淮河間に移住させられた。 漢の二度目の南方介入は紀元前135年、閩越の騶郢が南越国の趙眜を攻めた際だった。南越国は漢に救援を要請し、これにこたえて武帝は王恢・韓安国を閩越討伐に差し向けた。 しかし間もなく騶郢は弟の騶余善に刺殺された。騶余善は騶郢の死体の首をはねて王恢に送り、降伏した。この後、旧来の閩越は漢の王が治める閩越と、騶余善が治める東越に分割された。 紀元前111年、南越国征服から帰還した漢の楊僕は、この戦争で東越の騶余善が漢軍への協力を約束していながら果たさなかったことを理由に、皇帝に東越討伐を進言した。しかし武帝は、楊僕の軍がもともと罪人の集まりであり、長い遠征から帰ったばかりで士気も低いことを考慮して、楊僕の意見を却下した。東越は、漢軍への補給を担当することになっていたものの、結局戦場にたどり着かなかった。騶余善は悪天候を理由にしたが、実際には裏で南越国とひそかに連携していたのであった。 楊僕の計画を知った騶余善は、公然と漢へ反乱を起こした。これに対して漢は、横海将軍韓説・楊僕・中尉王温舒、それに越人を先祖とする2人の貴族が率いる討伐軍を派遣した。結局騶余善は殺害され、東越は漢に併合された。司馬遷は東越のすべての民が追放されたと記録しているが、これはありそうにない話である。
※この「閩越と東甌の征服」の解説は、「漢の南方拡大」の解説の一部です。
「閩越と東甌の征服」を含む「漢の南方拡大」の記事については、「漢の南方拡大」の概要を参照ください。
- 閩越と東甌の征服のページへのリンク