閣僚などの人事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:05 UTC 版)
8会派による連立政権だったことから、国務大臣(閣僚)人事は議員数などに応じて配分枠を決め、それぞれの党の推薦リストを上げてもらう方式だった。首相主導で決められる人事は極めて少なかった。社会党からは6人が入閣したが、どういう人が候補になるか、リストが出てくるまで分からない状態だった。 連立与党からは、新党さきがけの武村正義(内閣官房長官)、新生党の羽田孜(外務大臣兼副総理)、社会党の山花貞夫(政治改革担当大臣)、公明党の石田幸四郎(総務庁長官)、民社党の大内啓伍(厚生大臣)、社民連の江田五月(科学技術庁長官)と、当時の党首がほぼ全員入閣した。ただし山花は、総選挙敗北の責任を取って9月に社会党委員長を辞任し、替わって委員長に就いた村山富市は入閣しなかったため、政権と社会党執行部との間に距離感が生じることとなった。 連立与党側の運営は、各党書記長・代表幹事らの「与党代表者会議」によって行われるケースが多く、特に新生党代表幹事小沢一郎と公明党書記長市川雄一の「一・一ライン」が中心となった。当時の野党などから「権力の二重構造」と批判されることもあった。 当時の連立与党内では、政権党の中枢で仕事をしたことがある政治家は、自民党から分裂して誕生した新生党以外にはほとんどなかったことから、主要ポストを新生党が独占した。羽田孜・外務大臣、藤井裕久・大蔵大臣、熊谷弘・通商産業大臣、畑英次郎・農林水産大臣、中西啓介・防衛庁長官という顔ぶれは、外交や重要懸案での政策の継続性と、政権の安定性に気を配った人事だった。 衆議院議長には、新生党や公明党が、元社会党委員長の土井たか子を推薦した。社会党左派に人気が高かった土井を議長とすることで、連立への参加に批判的な左派を含めて社会党全体を政権に引きつけることを狙った。 内閣官房長官は、通常では首相と同じ政党・派閥の議員が就任するのが慣例だが、細川が率いていた日本新党は新人議員ばかりだった。新生党の熊谷も候補として挙げられていたが、結果的に新党さきがけの武村正義が選ばれた。内閣官房副長官には鳩山由紀夫、首相特別補佐には田中秀征と、いずれもさきがけ出身者だった。当時、首相特別補佐は制度上は認められていないポストだったが、事実上の補佐官として首相官邸に出入りするようにした。
※この「閣僚などの人事」の解説は、「細川内閣」の解説の一部です。
「閣僚などの人事」を含む「細川内閣」の記事については、「細川内閣」の概要を参照ください。
- 閣僚などの人事のページへのリンク