鋳造硬貨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 15:37 UTC 版)
アルカイック期の初頭には、鋳造硬貨はまだ発案されていなかった。ギリシア人たちは牛や鼎、金串など、確実に価値のあるものを基準に物の価値を計っていた。近東で行なわれていたように、紀元前6世紀初頭には貴金属の延べ棒が交換手段として使用され、主に銀が使用された。これらの延べ棒の重さは、基準となる単位によって計量され、「金串」という言葉から「オベロイ」、「(金串の)一掴み」という言葉から「ドラクマイ」と名づけられた。それらの語は後にギリシアの通貨の名称となった。 鋳造硬貨は紀元前650年頃のリュディアで発案された。この制度は小アジアのギリシアの共同体で、それまでの延べ棒の制度と平行してすぐに使用されるようになった。アイギナ島では独自の「亀」の硬貨が紀元前550年以前に発行され、鋳造硬貨はそれからアテナイ、コリントス、キュクラデス諸島に紀元前540年代に、南イタリアとシチリア島には紀元前525年以前に、そしてトラキアには紀元前514年以前に広まった。多くの鋳造硬貨は非常に小さく、また発行した共同体の中だけで使用されたが、アイギナ島の「亀」の硬貨(紀元前530年から520年頃)とアテナイの「ふくろう」の硬貨(紀元前515年から)は大量に発行され、ギリシア中に広まった。 硬貨の図柄は、初めのうちは頻繁に変更されたが、次第にそれぞれの共同体が固有の図柄を使用するようになった。都市にとって重要な神々や都市の名前をもじった物が使用されることもあったが、多くのものはその意図が不明瞭で、特別な理由なしに選ばれた可能性もある。 古代ギリシアにおいて鋳造硬貨が急速に、広範囲にわたって需要された理由は完全に解明されてはいないが、次のような説が挙げられている。可能性の1つとして挙げられるのは、貨幣によって交易が簡単になることである。基準となる重量を決められた貨幣は、そのものの重量を測ることなく価値を判別することができる。さらに、鋳造貨幣の利用者は銀が純粋な銀であるかを判断する時間をかける必要がない。共同体によって発行された鋳造貨幣は、一定の価値が定められた契約なのである。また、別の可能性として、共同体が市民や傭兵、職人などに明確で公平な報酬を効率的に支払うことが出来ることが挙げられる。同様に、共同体の一員で裕福な者は、祭や軍事費用のために共同体に財産を寄付する必要があり、この寄付の過程が効率よく、分かりやすくなる。3つ目の可能性として挙げられるのは、共同体の独立性とアイデンティティを鋳造硬貨によって表現していたというものだが、これは時代錯誤であろう。
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