針金サーカスの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:38 UTC 版)
「アレクサンダー・カルダー」の記事における「針金サーカスの時代」の解説
1928年はじめ、アメリカに戻っていたカルダーはニューヨークのワイイー画廊で、人物や動物を簡略化して描いた針金彫刻による初個展を開き、続く10年間をヨーロッパやアメリカで展覧会に参加するために大西洋を往復してすごすことになった。彼は1929年に『サーカス』を携えて乗った大西洋横断航路の客船で、ルイーザ・ジェームズというニューイングランド出身の女性と出会い、1931年に結婚した。 パリで、カルダーは『サーカス』上演を通じてジョアン・ミロ、ジャン・アルプ、マルセル・デュシャンをはじめ、主だった前衛芸術家たちと知り合った。このような中、多くの芸術家との交友や私生活での婚約などをきっかけに、彼の制作に変化が現れ始める。1930年10月のピエト・モンドリアンのアトリエ訪問は、抽象芸術を受け入れるきっかけになるかつてないショックを彼に与えた。 モンドリアンのアトリエには赤・青・黄の三原色と白・黒だけを用いた幾何学的な抽象画がいくつか置かれていたが、のみならず壁や家具まで真白に塗られ、三原色の厚紙が白い壁の各所に貼られ、全体で計算されつくした空間をなしていた。自伝などによれば、抽象的な空間に圧倒されたカルダーは、モンドリアンに「この赤や青の四角がいろいろな方向に振動すれば面白いと思いませんか?」と尋ねたが、彼は同意しなかった(カルダーの自伝では「その必要はない。私の絵画では、すでに非常な速度で動いている」と答えたということになっている)。彼はすぐに抽象画制作に取り掛かったが、2週間で針金彫刻に戻った。しかしそれはモンドリアンの作品のように限定された色で、天体の動きをイメージしたシンプルな図形でできた抽象彫刻であった。
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