野根山二十三士の殉難とは? わかりやすく解説

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野根山二十三士の殉難

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 19:11 UTC 版)

清岡道之助」の記事における「野根山二十三士の殉難」の解説

文久3年1863年)の八月十八日の政変以後、前藩主山内容堂により勤王党の大弾圧が行われ、武市はじめ土佐勤王党の主要メンバー軒並み投獄された。勤王志士らは武市救出による体制立て直し企図し、各地指導的立場に立つ者が高知城下に集結してその方法協議することとなった安芸郡指導者であった清岡は、同志が一体となって藩庁武市解放迫り遠隔地安芸幡多二郡の志士決起して威勢示し、藩が要求を容れない場合実力獄舎開放して一同長州脱走するべきと主張した。しかし大石弥太郎多数派は、清岡主張過激すぎ、また武市救出して長州には行かないだろうと考えて同調しなかった。元治元年1864年6月大石らは藩庁対し正面から嘆願書提出するが、要求受け入れられなかった。 同年7月26日清岡配下門弟併せて23名(「野根山二十三士」)は野根山街道岩佐番所武装して屯集し、武市解放藩政改革訴えた岩佐番所土佐三関一つ数えられる要害の地であり、か番頭木下嘉久次は同志であった目的達せられない場合国境越え海路にて京坂に向かい禁門の変直後京都において国事尽力する計画であった。 野根山屯集知らせ高知城下を大い震撼させた。藩庁はこの行動反乱みなして強硬策を採ることとし大監察小笠原唯八率いる藩兵を派遣して鎮圧向かった。これに対し清岡らは戦火交えることなく阿波国逃れるが、海路での逃走には失敗し阿波藩によって藩庁引き渡された。再び野根山超え9月3日田野奉行所収容され2日後9月5日一切取り調べもなされぬまま、奈半利川河原にて全員斬首された。清岡の首は高知送られ鏡川河畔三日晒されたが、彼の妻は、遺体の首を繋ぎ合わせて葬ったという。 長州清岡らの殉難の報に接した中岡慎太郎は、この事件受けて「涙をかかへて沈黙すべし。外に策なし」と土佐同志対し自重呼びかける手紙送っている。 処刑され二十三士の墓は清岡家菩提寺である福田寺田野町)の境内にある。処刑となった奈半利川河原は彼らを記念する公園となっており、浜口雄幸揮毫による記念碑建立されている。

※この「野根山二十三士の殉難」の解説は、「清岡道之助」の解説の一部です。
「野根山二十三士の殉難」を含む「清岡道之助」の記事については、「清岡道之助」の概要を参照ください。

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