部将として出世とは? わかりやすく解説

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部将として出世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:54 UTC 版)

呂蒙」の記事における「部将として出世」の解説

姉の夫である鄧当孫策部将であり、山越討伐従事していた。15歳に、賊の討伐出向いた鄧当の軍にこっそりついて行った鄧当呂蒙存在気付き叱ったが、呂蒙は家に戻ろうとはしなかった。鄧当家に帰る呂蒙母親その事知らせた呂蒙母親激怒したが、呂蒙貧しさから抜け出すためには、危険を冒して功績立てねばならない反論した呂蒙母親呂蒙の心を哀れみそれ以上何も言わなかった。 後、鄧当仕えていた役人で年の若い呂蒙馬鹿にする者がいた。呂蒙怒ってその役人斬り殺し同郷の者を頼って逃亡したが、後に校尉の袁雄を頼って自首してきた。この事件孫策耳に入り孫策呂蒙面会求め、その非凡さ見抜き側近取り立てた数年後鄧当死去すると、張昭推薦で、呂蒙鄧当任務引き継ぎ別部司馬任じられてその軍の指揮執るになった建安5年200年)、孫策死去し、その弟である孫権が跡を継いだ。まもなく、孫権軍団統廃合考えようになった呂蒙付け届けをして、自分兵士に赤い服装身に付けさせ、閲兵式臨んだ孫権呂蒙軍団見事さと、よく訓練がされている事に喜び呂蒙軍団兵士増やしてやったという。 丹陽討伐では至る所功績挙げ平北都尉となり、広徳県令に就任した黄祖との戦いで先鋒務め、敵の水軍都督陳就を自ら討ち取り勝利した。この戦いで、城を棄てて逃走図った黄祖捕虜にする事ができたが、孫権呂蒙陳就討った功績お蔭であるとした。横野中郎将任命され、銭千万与えられた。 建安13年208年)の烏林の戦い赤壁の戦い)では、周瑜程普とともに戦って曹操を破る功績挙げた益州の襲粛という人物兵士連れて投降してきた。周瑜上表して、襲粛の兵士呂蒙軍団編入させようとしたが、呂蒙はこれを辞退して、襲粛を称賛した上で遠くの国から投降してきた事を評価し、むしろ兵士増やしてやるべきだと孫権意見した孫権はこの意見受けて、襲粛に兵士戻した南郡において曹仁包囲したが、曹操大軍徐晃李通満寵ら)を派遣して曹仁加勢させた。周瑜甘寧命令して別に夷陵占拠させたが、曹仁が軍を割いて夷陵攻撃仕掛けてきた。甘寧猛攻何日も耐え、平然と談笑して屈しなかった。呂蒙は、周瑜程普対し凌統留守任せて、軍を夷陵救援に向けるべきと進言し、さらに夷陵から逃走する敵から馬を奪うために、道に罠を仕掛けておく事を提案した。この進言受け入れた周瑜は、呂蒙とともに軍を率い夷陵に赴き、曹仁を見破り散々に打ち破ると、その日戦闘で敵の半分を斬った。伏兵として3百用意したところ、逃走した曹仁呂蒙の罠にかかり、呂蒙は馬300匹を得る事が出来た。こうして味方勢い付き曹仁南郡から撤退させる事ができた。 呉が南郡占拠して荊州平定すると、偏将軍尋陽県令に任命された。

※この「部将として出世」の解説は、「呂蒙」の解説の一部です。
「部将として出世」を含む「呂蒙」の記事については、「呂蒙」の概要を参照ください。

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