邦実や家臣たちの支援
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 20:14 UTC 版)
家臣たちは開拓の辛さに、移住を後悔することもあったが、そんな彼らの心の拠り所となったのが保子であった。保子は日課として、娘の豊子を伴い、自ら作った草餅、団子、茶などを重箱に詰め、開拓に励む人々を労った。また開墾する家臣たちのみならず、彼らの家族の体調をも気遣って、声をかけた 保子は、気品がありながらも、開墾に打ち込む家臣たちの野良着と同様に粗末な服を纏い、家臣たちを気遣う姿で、家臣たちを発奮させた。本来なら藩主の奥方とあれば、姿を見ることすら困難な存在であったため、家臣たちにとって、その存在そのものが誇りであった。その保子から直接声をかけられることは、家臣たちにとって大変な喜びであった。家臣たちは「貞操院様が自分たちと一緒にいてくださる」「この地に理想郷を築き上げて、貞操院様にもっと良い暮しをしていただこう」と、開墾に打ち込んだ。時には生活が苦しく、木皮や草の根すら食料とすることもあったが、保子はそれでも開拓を放棄しないよう、家臣たちを激励して回った。保子が家臣たちのもとを回る姿は、伊達村の画家である小野潭による作品『亘理開拓図絵』にも残されている。 有珠への移住は自費が条件であったため、仙台の本家からは保子を案じて毎年、御化粧代として金品が届けられた。保子はそれをすべて、家臣のために使った。さらに保子は、邦成が開墾資金の捻出のために全財産を売り払ったと知ると、自分で持参した多くの着物、装飾品、美術品を「今の自分には不要であり、老いた身では手入れも難しいので」と、邦成に差し出した。邦成はさすがに、保子が大切な宝物を手放すことは気が咎め、それを固辞した。しかし保子は「この地に美しい着物や宝物は不要、手織りの服と、この地でとれた野菜があれば十分」「今必要なものは今日食べる食糧であり、私の望みは皆の開墾の成功と名誉回復」と説いた。邦成は感涙し、保子の申し出を受け入れた。保子のこの協力により、家臣たちは貧窮の中でも、さらに団結を固めていった。 開拓は女性も共に加わっており、保子はその中心的な存在でもあった。開拓作業の合間にも、春の訪れを告げる桃の節句には、保子は花を生け、茶をたて、和歌を詠んで、女性たちと楽しいひと時を過ごした。雛人形も飾り、甘酒も振る舞った、保子は和歌を得意とする深い教養の持ち主でもあり、雛人形は女性たちの心を慰めた。女性たちに加えて子供たちも集め、開拓の苦労話などで皆の心を和らげることもあった。
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