連句について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 01:06 UTC 版)
一茶がメンバーの一員となっている連句の数は270巻以上確認されている。芭蕉は340巻、蕪村は112巻確認されているとされ、一茶が参加した連句の数は、芭蕉よりも少ないが蕪村よりは多い。しかし芭蕉、蕪村の連句に較べて一茶の連句に関する研究は遅れており、2013年の時点でいまだに全連句の評価、解釈が終わっていない。また一茶の参加した連句においても、内容的に出来不出来がはっきりしているとされている。 連句とは五・七・五の長句と七・七の短句を交互に、参加者が一定の決まりに従って繋いでいく一種の共同作品である。江戸時代の俳諧師にとって連句は俳諧の王道とされており、中でも芭蕉は優れた力量を見せた。しかし俳句が庶民にまで広まった文化、文政期になると、他の参加メンバーとの共同作業、時には駆け引きや、煩瑣なルールの熟知が必要など力量、熟練を要する連句は徐々に敬遠されるようになり、発句、いわゆる五・七・五を詠む発句の会が中心となりだしていた。 270巻余りの一茶が参加メンバーとなった連句は、若い時期は先輩俳人のグループに参加させてもらった形のものが多く、江戸住まい後期の俳諧師としてある程度名が通るようになった時期は、夏目成美主催のグループの一員としてのものがほとんどである。そして一茶が郷里信濃で参加した連句は、宗匠である一茶がリーダーとなって連句を詠む形となっている。中でも郷里信濃で一茶がリーダーとなって詠んだ連句の数が最も多い。上記のように連句は煩瑣なルールがあるなどリーダーの場の捌きが重要となる性格があり、一茶が活躍した時期には下火となりつつあったが、俳諧の王道とされていた連句に最後まで積極的に取り組み続けた。 一茶が郷里、信濃で指導した連句では決まりごとを厳格に守るような詠み方はせず、内容的には郷土色豊かなものが見られる。この信濃で一茶が指導した連句は、内容的には芭蕉や蕪村のものと比較して文学的には見劣りするのは否めず。江戸で連句に熟達した夏目成美らと詠んだものと比較しても劣っているとの評価が一般的である。しかし終始孤独感が付きまとった一茶の人生において、郷土の気心が知れた門人たちと詠む連句はその孤独を癒すとともに、民衆のしたたかな活力、エネルギッシュな姿を生き生きと描き出しているとの意見もある。
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