近藤勇と日本刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:24 UTC 版)
「長曽祢虎徹 (近藤勇佩刀)」の記事における「近藤勇と日本刀」の解説
近藤は優れた剣士であった一方で、刀剣に関しての興味も強かった。少年時代に新選組と交流していた八木為三郎(新撰組屯所となっていた八木家の子息)は近藤について以下の通り話している。 私どもに逢っても、何かしら言葉をかけて、ニコニコして見せる、無駄口は利かず立派な人でした。刀の話が好きだったと見え、私の父(八木源之丞)と話している時は、たいてい刀か槍の話でした。 — 八木為三郎、『新選組異問』 また、近藤が国許に送った書簡の追伸には、近藤の刀剣観が以下の通り示されている。 原文 大刃剣は上作をあい選みたく存じ奉り候。麤刀(そとう)武用いささかあい立ち申さず。その内幸便にあい頼み、剣類差し下し候。御一覧下され候。柄は柚の木、また樫宜しく御座候。剣は大坂は決して、お用いならるまじく候。 現代訳 刃長の長い刀剣は上等の刀を選びたいと思っております。粗末な刀は戦闘用としては全く役に立ちません。そのうち手紙に託すときに頼んで、(粗末な刀を使ってはならない証拠として)刀剣類を差し上げますのでご一覧いただければと思います。柄は柚の木、または樫の木がよろしいかと思います。刀剣は大坂で作られたものは決して用いられないようすべきです。 — 近藤勇、文久三年十月二十日書簡 書簡には戦闘用には上等の刀を選びたいと刀の志向を示すとともに、柄(つか、刀の持ち手部分)の材質にもこだわりがあったことが伺える。また、刀剣を送ることが書簡で記述されていたが、同年11月21日に多摩郡本宿生まれの松本捨助を介して実際に3振の損傷刀が国許へ送られている。松本捨助は新選組に入隊しようと上洛していたが、一家の惣領であることから入隊を謝絶されて国許へ帰るのに併せて送られたものである。うち1振は山南敬助が佩いていた「摂州住人 赤心沖光作」の刀であり、大坂高麗橋にあった呉服問屋である岩城枡屋に侵入した盗賊と交戦した際に折れたものであった。この山南の佩刀こそが大坂刀であったことや、一般論として大坂刀は商品として美しさに注力したものが多く実戦で用いるには心許なかったことから、近藤が大坂刀の利用に難色を示したものと考えられる。
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