近藤勇と虎徹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:24 UTC 版)
「長曽祢虎徹 (近藤勇佩刀)」の記事における「近藤勇と虎徹」の解説
刀剣好きである近藤が自身の佩刀が虎徹であると認識していたことを示す史料がいくつか遺されており、新選組を結成して数ヵ月経った1863年(文久3年)10月21日に近藤が記した手紙によれば、虎徹の大小(打刀と脇差のセット)を所持していることが記されている。 池田屋事件発生の3日後にあたる1864年(元治元年)6月8日に武蔵国の後援者へ事件の詳細を伝える手紙にも「下拙は刀は乕徹故にや、無事に御座候」と記されている。ただし、後に甲州勝沼の戦いにて甥の佐藤俊宣と再会したときには、池田屋で虎徹は刃がボロボロにかけて使えなくなったが、鞘にはスーッと入ったとも話している。また、『新撰組余話』によれば池田屋事件から3ヵ月後の9月から10月に近藤は故郷に帰省しており、八王子付近の門人たちとも歓談していた。その佩刀を見た門人が「近藤先生の虎徹所製二刀」を見て感嘆したことに漢文を遺している。 なお、近藤の養子である宮川勇五郎の娘(つまり近藤の養孫)の嫁ぎ先に銀象嵌で「虎徹」と切られた脇差が伝来しているが、これは戦後に古道具屋からもらったものであるため近藤の佩刀とは全く関係がない。
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